テキスト1980
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青水うυこの花も基本的なものより随分胡蝶蘭を@古花を落として先の方の残った三輪の胡蝶闘に乙れ又7ページのいけ伐りの山査子(さんざし)をそえてみた。花器は走泥社の八木一夫氏の出作である。初センチ程の高さでUが小さいυ色んな伐花を集めていけているが残花といっても質の良いものでないといけない。いくら上等の花でも見頃の過ぎた部分はきれいに取り除いてさっばりした姿にしてやらないと花器までうす汚れて見える。新しい花材を手にして何か思いをいけてみようとする時と違ってとんな花は気転をきかす乙とが大事だ。料理にも似ている。程良い味付けの続きに少量塩味のきっいものがまじると次からのものも又新鮮な味覚で味わえるものである。だからこんな小品花にはオーソドックスなとりあわせと、形のものでは何にもならない。誇張があるべきではないかと思長くいけている。しかも先の方に三輪だけ花を成して長過ぎる程の茎である。皆さんの家の中にも常にてけである事と思う。おそらくお新古の花を忠実にいけてらっしゃる乙とだろう。今の季節なら前週の栴古花がまだきれいに残っている事が多い。そんな花をすがすがしく整理してい同のきいた花にいけなおしてほしい。よくしらべて丹念にいたんだ部分をとり除くと栴肯の時の花とは違った感じがする筈である。円由に自分の好みを生かしてみたくなるに違いない。別に花器らしい北探でなくともよい。そんな乙とが転機になって析肯の花から自分の花に移っていくものなのである。盛花や投入だけでなく柳の生花等は相当長くもつものは本数をかえたり形をかえる乙ともできる。父の若年の頃、人の残り花で稽古させられた事がよくあったらしいが、充分考えうまく工夫しないとまともないけばなにはならないので大変勉強になったといっていた。私達もテキストの写真用の残り花には随分お世話になっている。又最近自分でテキストの花をいけるようになってからはいけ上ったものをあち乙ちの部屋に飾っておくが一日おき位にいけかえてみた時テキストにとった花よりよく見える事が往々にしてあるυいける時に自分の主観が勝ちすぎていたのであろう。時山をこ杯の花はいおいて見直すとそれが素直によく分かるのである。次からはもっと柔軟な気持でいけようと思って自分に言い聞かせているのだが中々そうはいかない。自分の花を見直している時は他の人の批評を聞いているのと同じようなものとも一言える。一川一到J一四⑤ @ さんざしコチョウラン8 イ山

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