テキスト1980
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るU私達桑原専慶流の者には春秋の師組宣誓式でなじみの深いお寺であり先日の家元告別式で寺内のあちこちを打見する乙とが出来たが、その鹿山寺について御説明申し上げておきたい。店山寺は円浄宗の本山で寺伝によると天慶年間(西暦九四O年頃)良元(元三大師)の開制となっているυもとは船岡山の南、現在の鹿山寺通にあり与願金剛院とい(十三世紀)時代僧覚職が再興し、中国の臆山にならい、貴人も民衆も多く集まった。その頃から脱山天台講寺と名づけられたが応仁の乱で焼失したので天正時代(十六世紀)に引紅の場所K移っているυ引在の堂宇は天明の大火(十八世紀)の後に建てられたものである。本堂には木尊阿弥凶如来像、脇坦には薬師如来像や明智光秀の念持仏と伝えられる地蔵菩薩像があるυ大師立には元三大師をはじめ不動明王、金山毘沙門天像が安置されている。また、境内墓地には、光格天皇御父閃院宮典仁(すけひと)親王(贈成光天皇)雌山寺陵をはじめ、多くの后川町山王子女の御法があり、皇宗とのった。寛元寺L一|因縁もふかい。「鬼の法楽」毎年節分の日に悪疫退散を祈って行われる年中行事の一つであるυ食(どん)をあらわす赤鬼が松明と宝剣をもってあらわれ、太鼓と法螺に合せて足拍子をとり、群集のあいだを踊り回る。そ乙へ追傑師(ついなし)が山山て来て豆を投げると鬼は忽ち退散するという趣向で、鬼を追う乙とによって一切の厄難を払うとされている。「雲井の水」周回を自然石でたたんだ在地の中にあって、井戸のそばに厚肉彫の石松坐像一個がある。また付近に「澗底(かんでい)の松」という老松があったが枯れてしまった。いずれも謡曲「東北」に因んで名付けられたものである。「住吉具慶墓」表而に「法眼具慶」とのみしるした、す乙ぷる質素な墓石で、具疫の父如慶の幕と列んでい具度は阿を父に学んで人物鳥獣を能くした江戸初期の画家で、のちに江戸に移って幕府の御用絵師になった。古風大和絵の様式で多くのすぐれた絵巻物を描き、「向中格外図巻」はその代表作とされている。なお、同じ墓地内には中山家(花山院家支流)及び巾院家等の旧堂上公卿の墓や華道桑原尊度流家元の桑原宮春軒の円高があり、また、墓地の東端旧御土居の中央には仏師定朝の濯があるω(「新撰京都名所図会」参考)⑤ (花器・辰砂花瓶)5 「「庫富山

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