テキスト1980
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フ匂。備中の高梁川はこの地方での大河たが、夢のやふにぼんやりと遠くまでつづいた桃花の色調は、一カ月程も旅行を続けて居った私に、実に懐郷的な哀悠を与へさせるのであった。その夜、旅宿の枕K転々とし乍ら、まぼろしの内に桃の花を懐い、大同江の波に青白く霞んで照り輝いた月の光と去来する船の櫓音、哀悠に満ちた筒の音などを耳にくり返して、しみじみと寂しい朝鮮の夜を味はったのであった。その明る朝、桃畑からいただいて帰った桃花の枝を、宿の床の間に掃けて、私一人ぎりの追憶や、楽しさに時を過ごしたのだった。今、平壊府には岡山県より転任された小野陪月氏が熱心に当流を教授されて居である。浅口郡の長尾町から倉敷市へ通ふ路に、乙の高架川があって、昔は型通りの渡し船で往来されて居ったものだが、ζれに震橋と云ふ橋がある。川幅は数町もあり霞の如く見ゆる長い橋であるから、この名が称へられる乙ととなったのださうだが、数年以前の春、長尾の所在に当流の挿花会が催され、その期間、倉敷市の新渓園に於ての直門大会に山張して居った私がそれへ行く事になって、同行十数人がその桁を渡った。河帽の六割までは砂地だが、とれへ幅四尺程の恐ろしく細い、長い椅が腕艇と数町に連ってかかって居アQOそして二一刀の河岸の堤防には、桃畑の花が美しく咲き乱れて居った事を印象して居る。風の激しい日で此の長い橋を渡るのには随分危険だった事を党えて居るが、堤の畔にある茶屋で渋茶をすすり乍ら、桃花の話など乙の地方の師範の人迷と話し合った事も美しい思ひ出である。昨年忠ひがけなくもこの道を自動車で通過したが、長橋は鉄骨の立侃な府とかけ替えられ、数年前の面影とはすっかり趣を変へて、橋柱の長橋の二字のみがなつかしく感じられたのであったυとの気まぐれな旅人には、やはり以前の四尺の幅の危げな霞橋が嬉しく懐ひ出されるのであった。(宗慶は専渓の旧花号)父のお才須の流誌「龍断」にのっていた一文で私の好きな随筆であるο乙の恕い出話は来年一一月頃にのせようと思って以前からとっておいたのだが父の花を感じとっていただくのに最も一適した内容があるように思う。追悼の窓でのせることにした。なおとの号の巻末にその月(三月)に望月慶聡(京都)木下山鹿松(宇治)の二氏の師範許容の記事がある。華道の伝統を守りながら生け花を書院や床の聞から解放し、前衛の先鞭(べん)をつけた華道桑原専慶流十三世家元、桑原専渓さんが七日午後四時二十分、心不全のため京都市伏見区の第二武田病院で死去した。八十歳だった。告別式は十七日午後二時から、京都市上京区寺町通広小路上ル、庫山寺でυ史主は女婿の隆士口氏向宅は京都市中京区六角通烏丸西入ル骨屋町一五九。江戸初期に創流した「立花」手、桑原冨春軒専鹿の十三世にあたる。旧京都市立一両に花学中の大正六年、父親の十二世専渓が殺したため華道界に入り、昭和十四年、十三世桑原専渓を襲名した。ζれに先立ち昭和五年には、草月一流創始者の勅使河原蒼風氏(故人)、未生流中山文甫会家元の中山文甫氏らと新興いけばな協会を設立。流派の伝統である「立花」をそのまま受−一−た一一Uけ継ぐ一方で、その形を基本にした構成美、重厚さにあふれた独自の作風を完成υ鉄や問などを素材に使ったオブジェ的作品など、常に先端を行く作品づくりにつとめ、次々と新一作を発表した。今年六川刀、東京上野松坂屋で聞かれた「日本いけばなmれながら続くなかで門下生ら約千三人展」にも参加。熱帯植物などを使前衛華道の先がけ桑原専渓氏が死去たυ著書に「いけばなの四季」「桑って、大作「南回帰線」を出品、乙れが展覧会での最後の作品となったυ三十年から四十三年まで、京都いけばな協会の初代会長を務めたほか、日本いけばな芸術協会監事、参与も歴任。去年華道界から初めての京都市文化功労者として表彰され原専渓の立花」「専渓生花百事」など。小原豊雲・華道小原流家元(日本いけばな芸術協会理事長)の話専渓さんは立花という、わが同車道の伝統的な形を現代に受け継いだの名人で、古典立花の世界で彼ほどの名手は今後出ないのではないかと思う。その意味でも、わが国華道界にとって残念なととだ。故・桑原専渓さんの流葬、告別式さる七日他界した華道桑原専慶流十三世家元・桑原専渓さんの流葬、告別式が十七日午後、京都市上京区寺町通広小路上ル、腐山寺で営まれた。桑原さんといけばな芸術運動をともにした小原豊雲・小原流家元が葬儀委員長となり、しめやかな読経が流れ、追悼の乙とばが時に一波で途切百人が、めい福を祈った。参列者は立花に包まれ冥福祈る(日月8日朝日新聞転載)池坊専永さん(日本いけばな芸術協会副会長)らいけばな界関係だけでなく、狂言の茂山千作さん(芸術院会員)をはじめ、演劇、絵画、陶芸、写真・:と多方面にわたり、故人の広い活動ぶりをしのばせた。祭壇には、桑原さんが特に好んだ白ツバキと水仙の立花をささげ、制作中の生前の写真を飾った入口には松一式の立花を供えたほか焼香を待つ列のわきには二輪、三輪と白ツバキを配するなど、好きだった花を清楚に生かした式場υ八十歳でなお制作に情熱を燃やした立花の名手をおくるにふさわしい、門下の心配りを感じさせた。(日月児日京都新聞転載)御礼のごあいさつ先般、父桑原専渓死去に際しましてはど繁忙中にもかかわりませずど懇篤など弔慰を賜わり有難く御礼申しあげます。御蔭をもちまして、桑原専慶流流葬滞りなく相済まさせて戴きまし流内の皆様方のど芳情の程まことにありがたく感謝申し上げます。また生前中父に賜わりました御厚誌を深謝いたします。父亡き後も、隆吉・京子、力を合わせて、益々桑原専慶流を盛りたてていくよう努力するつもりでどざいます。今後とも、よろしくお願い申し上げます。3

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