テキスト1980
124/137

たυその頃、幼い私にとっては桃の花の落ちたのを見る乙とは実際品川もつだった。今日のお稽古乙そ落とすまいぞと思いつつ、一枝一伎と手に触れるたびに音もなく落ちる白桃、亦桃の花がうらめしく思われたのであった。父の在世の頃、厳格な父は門人の方達にもそうであったが、殊に私には厳しい稽古の付けゃうであっ一瓶に挿ける桃の生花が生け上るまでに必ず、幾つの花より以上は落としてはならないぞと言ひ付けられて、まだその頃、遊ぶ事の方が大部分の生活であった私にとっては、実際情ない程難しい問題であった温室咲きの桃の花を一束とりあげて梨を解く時にすでに幾つかは、ぱらぱらと落ちて、その日の記録を花廷の上に記すのであった。今日乙そは落とすまいぞと、静かに静かに全身の注意を集めて控まで枝を作り、最後の水際に及ぶ乙ろには、どうしても私の膝がしらには、真白い桃の花が数知れぬ程落ちて私はがっかりとしてしまふのであった。ある附には殆んど落とし尽くして花のない桃の生花を前にながめ乍ら、畳の上に美しい紅色の桃の花を一つ一つ整列させて、時を忘れるとともあった。その頃例年定って京都広小路の梨木神社に流儀の桃の生花を献花す名事が慣わしであった。難しい古式に依って行はれる乙の献花式のその時の奉仕者が、まだ十四歳の少年であった私に定った為だったのか、三月に入ると月初めのお稽古から桃の生花ばかり重ね重ねて桝古を付けられたのであったくる日もくる日も桃の花を幾瓶とも知れぬ程挿花しUUMH慶桃咲く頃の想い出(昭和日年「りんどう」より)しかしながら、て居るうちに、やっとその頃花ばさみをもちかけた私にも花を扱う方法が理解されて、夢の世界にまで彩って来る桃の落花は、心々と数少なく挿花出来るとととなった。その問の父の厳しい椛古付は大変なもので、落としてはならぬ花の数も追々と「今日は十花以上落としてはならぬ」「今日は五つ以上はならぬ」と制限されて、しかも花形のよしあしに就いても、中々難しい批評をされるのであった。幼い頃の夢の様な思ひ出ではあるが、私は桃の花の咲き初める三月四月の頃になると、この深い印象に呼び返されるのである。花廷の上に正方形に並べた桃の落ち花は、その頃私にどんなにが川発心を与へた事であろう。本派木願寺の遠忌の立花を作るζとを依頼されて私は大連の別院へ行った事がある。今から十年程以前の話であるが、大連別院の法要も終了し自然私の仕事も終る乙ととなったので、大連市街や旅順の古川削を巡遊し帰路朝鮮へ立ち寄るζとにした。当時、私の親友のある人が平壌に肉店を経営されて居ったので、その人の強つてのすすめもあったので、あはただしい数日を平壌ぃ肘の古蹟訪問に費したのであった。四月の初めであったが、二三人同行の人達と共に大同江の上流にある日清役の古戦場を彼方此方と見物して、高台の丘陵から一望模糊の雄大なる風景を川味覚しつつ、平壌市街の方へ向けて帰路に着いたのは、静かな春の口が壮大な地平線に没する頃だった。大同江の川べり伝いに夕誌の中にほのかに見える坦々とした道を謡などをうたいさざめき乍ら、一里程も歩いた頃、漸く街に入るζとが出来たが、ふと道に訓ふてある木立の中より電球の光が洩れて、土塀のかなり立派な邸があった。近づくに従ってとの家の周聞は移しい数の桃の木にとりか乙まれて、丁度満開の桃花が淡い月光に浮き出るやうに、それは見事に咲き満ちて居るのであった。淡紅の花だっ’二'.=,刀ミミ2

元のページ  ../index.html#124

このブックを見る