テキスト1980
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−J’〜A、戸、2.Vnu 、司吋. 日本人の生活には食器を和洋中華と揃えなければならない。これは大変な事だーーとよみうりの末次摂子さんが言っておられたがその通りである。ヨーロッパからも食器類が沢山輸入され私達も使っている。有難い事にいくら割れても何年前のものでも買い足しがきく。それも高紙品ほど責任をもって同じものを何年も作っているそうである。だから同じ柄で食器類を全部統一出来る訳である。そして外国の古い家では何年も何年も一つの柄の食器で食事するに違いそれにお城のような館(やかた)では色んな部屋の絵ゃなんかも百年二百年と同じ絵がいつまでも同じ所にかかっているに違いない。日本の床の間のように季節によって、来・拝によって、主人のその日の気分によって簡単にとり変えられるような事はあり得ないだろう。床の間に洋国もよくあうものである。そんな時は上の写真のようないけばながよくあうだろう。アンスリウムの葉と黄色の鶏頭を明かるいフランス製の陶器の大型サラダボウルにいけである。アンスリウムの葉は床の間に合う洋風いけばな一枚一枚前後をはっきりさせること。鶏頭は高く使ってはならない。長く切って、うんと前に低く倒していける。低くというのは必ずしも短かいことではない。後の鶏頭は短かく、後へいくほど直立させて高さをおさえていけてほしい。私迷日本の蒋らしには西欧人とはかけはなれて変化が多い。食器だけを例にとっても、同じ柄の同じ焼きの食器でお茶碗から川まで揃えるなどということは日木の+枯らしでは馬鹿げた事としか考えられない。織部の山に焼魚を、染付には煮物をと折々の季節も考えながら器を使い分けている。年がら年中同じ絵の前で同じ食器で食事する西欧人との追いははっきりしている。そう言った生活の弘本的な条件が違った場廿、他にも農耕主体の民族か遊牧的な民族かとか色々な条件が重なり什った場An、物一つ味わうにしてもそれぞれの感覚の働きは全く異なった働きをする筈である。私達に美しさを呼びかけるものも西欧人にはそうでなかったりする場合を考えれば芸術というものの発想も全く異なるものとも考えられる。いけばなも西欧式の芸術という定義で割り切れるものかどうか。何も西欧的な定義にあてはまるものをいけて、いけばなも芸術であるというような一昔前のいけばな観から脱皮したいものである。、,;,•(花材)アンスリウムの業・鶏頭4

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