テキスト1980
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蓮の残り花ももう小さくなった。李朝の白資に錦木をそえて書斉向きの花。秋を感じはじめた頃誰しも今年は少しおちついて本を読まなければと思うものである。そして自室を片付け花をいけたりもするが、九月の初め頃は夏の残花を用いることも多い。静かに秋を迎えようという気分に誘われるものである。そんな意味での初秋の小品花としては、ホトトギス、ススキの尾花、野カンゾウ、ワレモコウ、リンドウ(花材)やムベ、アケビ、サンキライ、に栗も大きくなっている。栗と白リンドウ。ススキの尾花にワレモコウとケイトウ。ムベの実に白菊。カキツバタの一種いけ。ホトトギスに夏ハゼの紅葉といったあっさりしたとり合わせで野山の初秋を書斉にとりζみたいものである。・錦木とのテキストもすでに二百号を乙えた。最近六角の家の蔵を片付けているが、戦前K出していた流誌である「龍胆」(りんどう)や戦後発刊した「挿花春秋」がまとまって出て来た。整理の手を休めて父の文章を読んでいたが中々良い事が出ているので以下御紹介したい。挿花春秋口号『挿花のもつ香と味』より私達が挿花(いけばな)を見るときそれから種々な味わいを感ずる。自然に咲く多くの花には、すでにそれぞれのもち味があり、花器その他の装飾物からもそのような感じを・つけるととは勿論であるが、Xそれ等の材料と、挿ける人の技術との結び挿花の作品全体から受ける味が、即ち私の言う挿花のもち味である。華やかな感じの草木を挿したからといって挿花作品となった時、決して華やかなものであるとは限らないし、静寂な材料を取合せて投入花にしたからといって挿け方Kよってはむしろ華やかに見えるととにもなる。そこに挿花の妙味もあり、私達の芸術の運び方のよしあしと言うもそれのも生まれて来るとととなるものである。挿花春秋『限界』より・・:略:::掃花の場合にもどうも挿し過ぎだな、と感じる場合が時刻刻いけばなは他のものに比較して作MA号昭和幻年2月昭和お年9月号止ロる時間が短かく、小品なれば一時間程度、大作でも二、三時間で仕上げるのが普通であってその時間内に仕よげて行く形、色調、それから生まれて来る感覚に就て責任を持たねばならぬ関係上、その挿花の最も適当な手放しに就て、しっかりした見通しをもたねばならぬ。挿花は短時間に仕上げなければならぬから、殊に水揚の悪い材料を挿ける場合には、乙の手放しと言、っか思い切りと言うか、乙れでいいと言う自信のある見切りが大切である。挿花春秋幻号昭和お年8月『要点を知る』より註ーー桑原専皮流の挿花の理想を述べた後以下の説明がある。:::要するに常に多くにの芸術対して深い理解をもっ高い鑑識をもっととが肝要なのでありまして、私達のもつあらゆる芸術についての潜在的な知識が挿花を作るに当って根底の力となってそとに挿花の特別な技術と組み令わされて高度のいけばな芸術が生まれるζとになるのです。乙の号には他に稽古の時は熱心にしかも楽しくおやりなさいとも記されている。次号からはとのテキストの一号からも覚えておいてよい事を抜き書きしてみたいと思っている。連‘載致します次号より抜粋連予・書斎向きの花.. __________ l r' フ。。与占々恐〈口せによってつくりでる、いわゆるs----------・ 2

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