テキスト1979
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(,Na9) 狭い庭だけれど椿の若葉、柊の老木にも新鮮な緑の葉がいっぱい群って、私の庭にもようやく夏がやってきたようである。大きい支那鉢に球根を入れておいた紅蓮が浮葉をみせており、小さい巻葉とともに筆の先の様にみえる花首が水面を切って登っている。昨年から住みついている小さい錦魚がふたたびその季節を褐たのか、磐いよく浮き沈みしているのをみると「ごきげんよう」といいたい気持がするのである。私の挺には、すすきの若葉、あざみの紅、残りばなのバラに入り交ってすずらんの花、楼黄色の姫かんぞうに、夜店の柏木市で買ってきたガーベラの鉢植、野菊のうす紫の花など雑然と咲いているのだが、やがてむくげの花も咲くだろうし、依の、11い大綸の花も咲く。季節には少し早いが、軒先に半垂れのすだれをかけてみると、その向に見をる緑の木の葉が一層すがすがしく、少し暗い部屋の昼にも緑色をうつしている。きのう北白川の111裾で採集した「はないかだ」の小枝を手付きの竹怒に活けて床の間にかざる。センチの小さい緑の葉にごま粒のような小さい花をのせて白い小花を咲かせている。日本の美しさというのは、このような静かな心の花をさす5ー6のであろう。中京のまん中に住む私は、表通りからかなり奥まった家の、さらに庭をへだてた土蔵を書斎に使って生活をしている。戦前、冷房装置のまだ普及していなかったころ、大阪宗右衛門町のある料亭で、いけばな人の集まりをひらいたことがあった。七月のある日、土蔵は冷えびえとしてよい、というので数人が集まってここを席にして花を活けたのである。決して涼しいとは思わなかったのだが、実際そのときに活けた花が意外に永もちして、やはり土蔵はいいものだな、と感心したものだったが、考えれば随分のどかな話であると思う。ただ、蒲賠く空気の動かない土誠の様な場所は、切り花のためには大山連よいのだろう、と考えたのだった。夏の花は早朝まだ陽の登らない時間に切りとるのがよいということになっている。蓮花やこうほねなどの水草は午前四時ごろから、池へ行って朝露のあるうちに切るのが普通だが、夏の早朝は空気もしっとりと冷えて、植物の吸水する時間であり、その静寂のころを見はからって切りとるということと、土蔵の中の冷涼の安定した空気というのとが一致した関係にあるのではないかと考えている。とにかく、花は「活きもの」と同今日からじである。自然に育っている環境と同じであれば当然水あげもよく、日持ちもよいということになるのだが、突然切りとって花瓶の中へ入れるとはいっても生活環境が変ることになろうから、吸水力が弱くなり、短時間にしおれるということになる。いけばなというものは、美しい趣味ではあるが花にとってみれば、随分迷惑なことだろうと常に思っている。月党草(地10)上図下図春日卓11

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