テキスト1979
51/151

二重切筒の生花こでまりつばき雲竜桑フリージァ二重切筒の上段にコデマリと紅椿、下段に雲竜桑と紅色のフリージァを活ける。上段の花形(右勝手)は訓及胴を長く垂れ枝に作った草(そう)の花形である。真をやや低くして留には紅色の乙女椿をねじめにつけた。ド段の窓から登り生(のぼりいけ)の形に榮の木の曲線状の枝を三本、紅色のフリージァをつけて左勝手の花形を作る。照的に取合せ、材料の形もよく色の調和を考えてバランスのよい花形を作る。生花の中でも意匠的な配合を考える作口go上段下段の形は垂れる花形、登る花形を対上に掲較した二重切筒の生花について考えてみる。写真の花器は普通よりも少し小形の竹器で褐色に色付けがしてある。最近、すす竹というものが殆どなく、よく似た色に加工したものが多いが、花を活けてみると意外に落粋きがあって、白竹の花器より花うつりがよい。この写真の上段、コデマリと紅椿の花形を一瓶だけ見つめる。(下段の花を見ないで)、この一瓶を普通の背高い花器に独立して活けても調子のよい生花だし、また下段の雲竜桑にフリージァの左勝手の生花を一瓶だけ、これが一重切の化花としても調子よく見られる花である。さて、この上段下段の二瓶を組み合せて、写真の二重切の生花としてながめてみると、少しさわがしい感じがしないでもない。活ける本人にとっては力をこめて作った作品ということになるのだが、見る方の側から批判するとなんとなく装飾過剰という感じもするし、また淡泊に一作ずつ別の花器に(花形をそのままにして)入れてあるほうが好ましい感じがするのではないかと息うのである。ここで考えさせられるのは、生花の形式に添うことによって、その奥味によって生花の技術的なよさ、生花の品格を落とす場合がよくあることである。一作だけ見る場合にこそ仕花のよさが感じられるのに演出過剰によって、却ってその価値を落とす、という場合もあり得る。珍しい花形を作ろうとする牛花の興味本位の作品にこの様な傾向の作品が多く、結呆として俗趣味になるという場合もある。過剰な演出よりも清楚な趣味でありたいものである。\ 11

元のページ  ../index.html#51

このブックを見る