テキスト1979
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三日間で書き終えたこの月号だが、最後の12ページを残して印刷に廻す。今日、この12ページに「葉蘭」の生花について書くことにした。ここに掲載した生花図は竹器二本をとり合わせた「二管筒」にかんづつの生花である。大小の花形、右勝手と左勝手の組み合せで調子をとる。この葉蘭は九枚を副流しに活けた専渓もので(真、見越、真かこい、副、胴、胴のしずみ、留、総がこい、控)の九枝で活けた草(そう)の花形であり、右の下に活けた小品の花は「クリスマスローズ」で二月より三月に咲く庭の草花。ばらんにクリスマスローズは盛花的な感じがあって、生花としては珍しい配合といえる。この絵は原稿とともに二時間ほどで書きあげたもので、いささかお粗末だと思っがとにかく参考になれば、と考えて掲載することにした。さて、近頃、ばらんの生花を活けることが少くなった。第一よいものが少なくなって、花屋で見かけることがあっても、葉の形が悪く、こんな材料ではよい生花が入らないというのが普通である。第一、ばらんという材料がすでに過去の時代にもてはやされた生花材料であり、一般にはふり向かれないような材料となっている。栽培する側も以前のように熱心によい葉蘭をつくるということもなくなり、自然、活ける方も面白くない材料ということになり、新しい材料が多く見管[筒[二にられるこのごろは、葉蘭などに興味、材料のをもたない様になったと思うのだがその上、活ける人達も葉蘭を活けるような花道家も少なくなって、と技術との両面から、追々と見る機会が少なくなった、いわば昔の生花材料ということになっている。しかし、生花の伝統的な技法の中に、特殊な形式と技術を必要とする花材であるだけに、こんな性質の材料を巧みに活けこなす技術者がいつまでもあることを、願つのは私だけではないだろうと思う。私は葉蘭の生花について苦い経験をもっている。二十才前後のころ、花道を志して間もないころであり、そのころはまだすべてにおいて出来ておらない時期だったので、この葉蘭の生花はどうにも巧く活からない、そんな状態だったが、すでに私の父は亡くなっており教えて呉れる先生先鉗というものはなく、すべて自身で自身を開発せねばならない時期だったので、この葉蘭を完全にしかもよい花形を作るように随分考えたものだった。ただけつつどうして巧く入らないかと苦しんだものだったが。ある日、突然と、それこそ突然の啓示とでもいうのであろうか、全く思いがけなくも、実によい方法を考えついたのだった。随分嫌だった葉材料一人で葉蘭を活蘭の生花が楽々としかもよい形に入る方法を発見したのだから、私にとっては、実に意外と思えるほどの期眼だった。考えてみれば当然のことなのだが葉の選択はいうまでもないことであり、葉の方向をその場所によって移動すること、ねじれの調子と高低の配置、葉の大小とくせによって場所をきめること、それらの技法がこまごまとあって、ひと口にいえば自分の考える花形に花材をあてはめるのではなく、反対に、花材によって花形をきめるその考え方が、活けようとする花形を一変して形よく作り得ることになり、それこそ順序よくすらすらと進行することになったのである。筆で書けばなんなく話すことが出来るのだが、また、教えてもらえる先生があれば、その要点だけはわかるのだが(教えられても簡単に掴めないのが一般である)自分が自分を発見するということが、どんなに苦心を要するものであるかということを、しみじみ体険したのであった。それ以来、私にとって「葉蘭」の生花というものが、実に楽しい材料となったのだが、とにかく自ら苦しみ、自らそれをきりひらくということが、如何に大切であるかということが理解出来、私の人生勉強によい体験だったと思っている。、•::' "'. 生花ばらんクリスマスローズヽ葉ば蘭えの生乳花か12

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