テキスト1979
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圏• Rヵカユウ、ユーカリ、シクラメンの三種を広口花瓶に活ける。新しい様式のこの花瓶は大きく切り込みがあって、これをどんなに利用するかが、この花器を活かすことになる。花葉の分益を多く入れないで、花器の内部まで美しく見えるように考えた立体調の瓶花である。ュウユーカリシクラメン今日では日本も経済大国ということになっているのだが、大正から昭和へかけてのそのころは軍国日本として世界の代表国だった。イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどの諸国との間に軍備縮少会議がひらかれ(ヴェルサイユ)て元老西園寺公望公爵が出席されたのだ30オをでたばかりの聡明な女性だったと記が、私どもには忘れられない出来ごとだった。西園寺家の奥女中の「お花さん」という女性がこのフランスヘお供したことは、そのころの賑やかな話題となっていたが、京都に西園寺家の別荘(京都市関田町)があって、公閃が外遊される前後は、京都の別荘へお見えになることが多かった。まことに光栄なことだったが、そのころ二十オをすぎたばかりの私が、このお邸へ行ってお座敷のいけばなを活けることになっていた。一か月に二、三回程度だったと忠うのだが、内玄関の次の部屋で五、六瓶ほどの瓶花を活けてお座敷へ飾りつけるのだが、そのお相手がお花さんだった。そのころ岱しているのだが、すでに八十オにお近い公閃が時々おみえになって花を選択されたり、この花器に活けて欲しいなどとお好みもあって、実に気品の高い長身白哲のお殿さまだったことが深く印象に残っている。京都大学に近い今出JI通に面した百メーター四方のこの別邸も今はなくなったが、その頃の私は、門跡寺院や実業家のお宅よりの依頼があって、本顧寺をはじめ、高島屋の本邸呉竹庵、外村与左衛門氏の泉涌寺本邸など、その他の著名なお邸のいけばなを活けるのが私の仕事のようになっていたのだが、床の間の装飾から茶席の花に至るまで、なお花器の管理や、工芸家に花器を作らせるまでの役目をたのまれたものだった。お抱えの花の先生とでもいうのか、そ、日本の代表としんな役柄が花道家の仕事のようになっていた、まことに平和な時代であった。ヽ......... 10

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