テキスト1979
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-=====ll==== l=―-=-====Illl 随筆専渓ラン11ドロンやジェーン11ホンダ、このごろではカラーテレビで、アナタリー11ドロンなどの主演する映画を普通にみる時代になりましたが、私達の小学生のころは明治40年前後、日露戦争が終わって、その戦争映画が映画館にかかっていて「活動大写真」というわけで、中々人気のあるそんな昔なつかしいころでした。「活弁」カッベンと称する説明者が映写幕の片隅に机をおいて「これより映写いたしまするは」などと声色を入れて説明したものでした。この弁士にファンがあって、中川愛光だの堀井秋江などといった活動弁士が有名で、特別出演などと肩書がついており、それはそれでそのころの盛り場の人気ものでした。私は子供のころからいつも映画館へ出入りする、不良性のある小学生だったので、京都の盛り場「京極」の映画館へたえず出入りしていました。年が変るにつれて映画館の方もいろいろ工夫を考え今でいう演出方法を変えて面白い形式のものがあらわれてくるようになってきました。新派の劇の中に映画を組み合せて「キノドラマ」というのがありました。舞台で壮士劇風のチャンバラの実演がクライマックスに入ると、ビリピリッと笛が鳴り、上手の天井から映写幕がさらさらっとおりて、それに映画がうつる。舞台の実演と調和した風景写真と追っかけが映るという仕組みなのです。これがキノドラマと名づけて、その頃、ちょっとした流行になっていました。時代劇の「尾上松之助」というのが人気俳優で、京都では撮影場所にことかきませんから、嵯峨の嵐山や等持院お室などで撮影現場をよく見たものでした。このころの日本映画は舞台の時代劇をそのまま、自然の風景をバックに借りたもので、演技の性格は舞台劇をそのまま実演しているような古い形式のものでした。「肥後の駒下駄」だとか「忠臣蔵」「猿飛佐助」といったような伝統的R紅白の花弁を交えた早咲きの八重つばき椿が咲きはじめるといよいよ冬のさきがけである。この椿は十一月に咲くので「神楽」かぐら、といわれ、また花と葉の色どりをなぞらえて「青緋椿」せいひつばき、ともいう。やがて水仙が咲きはじめ、桜の返り咲き(寒桜)を活けることになる。このテキストには白椿を活け、青緋椿を生花に二瓶活けることが出来たが、この青緋椿は枝振りに変化がなく、ずわえの前上形に美しい花があり、その後方に開花を重ねて入れたが、副胴の右方に枝を重ねて花形のふくらみを作り、留に調子をつけて漸く花形をととのえた。足もとは美しく揃っているが、全体的に少し堅い感じがする。壷との闊和はよいのだが、台が少し高すぎると思う。なものを写真にしたという程度でした。それでも娯楽の少ない時代ですから結構、映画館は満員でこのごろのように空席いっばいといった感じはほとんどなかったのです。京都では北軍気館、南電気館、中央館などの映画館があって、面白かったのは、北電気館でやっていた、「保津峡遊覧」という映画でした。輿行屋もいろいろ工夫するものですの。風景こをの汽映車画のは中-京か都らの撮嵐影山しのて保津、川渓谷にそうて走る列車からの風景やトンネルに入る状況を写すだけのもので、いわゆる「実写映画」と称するものですが、変わっているのは、客\映画の話JR せいひつばき10

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