テキスト1979
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ますが、子供のころの印象は今日にもはっきりと記憶があり、その薬の香りさえも覚えています。これが京都御所の御苑内での話ですから、その様な場所に民家があったことも珍しいことですし、ろののんびりとした社会情勢が考えられるのです。私達小学生は御苑内の草の原っばを遊び場にして、の茎をかじっておやつにしたものだった。御門を入ったところに大きい銀杏の樹があって、秋も深くなって葉の黄ばむ頃には、腕白どもが石を投げて実を落とすのでしたろの子供達は山村の子供達と同じように自然に慣れ、山栗の実を採集したり、木いちごの実をおやつにするような生活の中の遊びがあったのです。寺町通の御所の東に面して松林が町御門から広小路までの間のこの松林は、私にとって息い出の深い場所であった。この松林は現在もそのままあるのだが、ちょうどそのころ、私は学校が終わると.. 広小路東桜町の野村敷明という能の先生のお宅へ謡や舞を習いに行くことになっていた。袂(たもと)の長い和服に袴をつけ白足袋をはいて、腰には三0センチもある仕舞扇を打ち込んで、三、四人の同朔の子供達といっしょにこの松林の中を通り抜けて、広小路まで行くのが例となっていた。悪三00メートルもつづいている。寺そのこすっばいいたどりことになったが、烏丸通の蛤御門でこのこ童達が揃って通り抜けるのだが、やがてこの場所が私達の剣戟の道場となり、腰にはさんだ舞扇が小刀の役目をすることとなり、野村先生の舞の稽古よりこの剣戟の遊びに熱を入れたものだった。その後、50年をへて最近になってこれも御所の北辺にお住居の茂山千作先生のお宅へ、狂言の稽古に通う電車をおりて御苑内を西から東へ通り抜けて寺町へ出るのが例になっていて、その往復のゆくさ帰るさの道すがら、御苑内の北辺の奥深い草原を稽古場にして、習ってきたばかりの立ち型の身振り手振りの稽古をすることにしていた。桔古ごとというものは、必ず予習復習をすることが大切で、桔古場へ行く前にこの御苑内の籾古場で大声をあげて、右往左往の立ち廻りを一時間程度やってから、すぐ近くの茂山先生のお宅へ行こ。t 素人歌舞伎の会に入って片岡仁左き稽古をつけてもらうことにしてい衛門先生に教えてもらっていたころも、その予習復習はでの御所の森の中でやったものだった。同志社が近いので、時々学生逹の演劇のリハーサルや、合唱などと一緒になることもあって、こともあるのだが、そこはかなり強い心臓で押し切ることにして、いつ随分変な奴だと思われるもここを稽古場にしたものだった。御所の西苑から北苑へかけて、の白梅紅梅、八重桜しだれ桜などの花が咲き、秋の紅葉はことに風雅に美しい。紅葉の美しいのは11月の17い紅色は殊に美しいものです。私にとって御所の御苑は学習の場所でもあったし、永い年月のうちに種々な想い出を積み重ねた場所でもあったのです。日18日の前後と定っていて、桜の深U春@

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