テキスト1979
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、1(随筆二趣)住居というものはその住む人によって性格の違うのは当然である。毎日の仕事の関係によっては好みも違うし、またその住居が単なる生活のための家である場合もあろうし、家そのものが職場と閲連している場合もあろうし、そのため人の出入りの多い家もあって、それぞれ必要に応じて形が違うのも当然、ということになる。そこで、私の住居というのも少し変わっていると思うので、思いつくままをお話してみよう。私の家は六角烏丸、いわゆる中京のまん中にある。古い俗謡に「京のまん中六角で、そのまん中の六角堂、からだのまん中にへそがある。六角堂のへその石」と浮かれぷしもどきの歌にある京都は室町、その中心の呉服問屋の町。表通りは一日中雑踏していて、自動車の往来が引っきりなしに騒がしい。その賑かな通りに面して伝統京都の住宅様式の―つである、露路といわれる細い通路があり、それを入ると二十メートルも細い石だたみがあって、その奥まったところに栢え込みの樹木の中に家屋があるという、露路のあるわが家専渓る。いかにも京都風の家である。よほど以前に京都新聞から発行された「民家の庭」という木に収載された庭で、はじめて来訪された人はこの露路になんとも風雅な情緒があると貨めて下さるのだが、毎日出入りする私にとっては機能的でないことおびただしい。第一、この時代に自動車の入らない家というのは、時代おくれも甚だしいとはずかしい思いをしているのである。しかし、この細い露路に特徴があるらしく、そば屋、菓子屋の店員が流行歌の―つも歌いながら入ってくるという、のどかさもあるわけであ表庭に茶室の待合と路鋸があり、玄関の八僭がそのまま茶席になっているつくりなので、一見、きびしそうな生活にみえるのだが、ここに住む私達家族は案外のんびりとしていて、この家に似つかわしくない横着な連中なのである。部屋が十室ほど、五人の家族が一室ずつ使っていて、私はほとんど机の仕事をする関係上、裏庭のその奥にある土蔵を改造して、書斎兼事務室に使っている。広間は三十壺ばかりの部屋が階上階下に二つ。いつも開けっ激しにひろげて、座敷というよりは謂路の役目に使っている。時とすると五十人程度は座ることがあり、ことに私の仕事がいけ花なので、作品を三十瓶ほどならべてその上に五十人近くも座ろうとすると、どうしてもこの程度の空間が必要ということになる。私は、家というものは住む人の個性がしみ込んだような、好みに合ったものであることが必婆だと息っているので、私の家は仕事の関係もあって、すべて和風の室内調度、それも襖、位に古い床の間という形式であり、それに民芸風の道具類に統一して、それ以外の道具類はなるべく入れないことにしている。従ってなんとなく古風な趣味に見えるのだが、一面、かなり多忙な生活をする関係もあって、出来るだけ機能的に能率のあがるような器具類を使っているのも特徴の一っといえよう。電話がニカ所、トイレがニカ所というのも押しかけてくる人数相応の設備なのである。この家の特徴といえるのは庭が多いこと(四カ所)奥まっているので静かであること、従って選拳のころでも自動車の騒音や連呼の声が、あまり気にならないこと、午前三時、四時ごろまで仕事をしていても、近所に迷惑を及ぼさないこと、そんな長所があると思っている。午前雰時より始まるJALの深夜放送など毎日のように聞くのだが息ぬきにときどき町の喫茶店でコーヒーを飲み、茶室があってもお薄はのまず、土蔵の部屋で夜おそくまで音楽をきくという自由主義の生活をしている。七十九歳になって、能は観世で二十年、狂言は千作先生に十五年と習った私だが、最近、ダンス教習所に通おうという生活である。古典的なものと現代版とがゴッチャになった生活をしている私の住宅である。(六月一日・京都新聞掲載)宇治川の南にあった「巨椋の池」おぐらいけ、は周阻17キロに及ぶという、広々とした沼池だった。古くは「おおくらのいりえ」と呼ばれ、月の名所として「都名所」の中にもよみこまれていた。今日では干拓地となっているけれど、そのころ夏になると蓮花、河骨、おもだか、みずあおいが咲き、池畔の芦、すすきの生い茂った水路を「蓮見舟」の行き通っ風景は、古い昔をそのままに見るような風雅を感じられたものだっ白い朝m籾のたつ午前五時ごろ、私達は池の東畔にあった「蓮見茶屋」から舟を出して、2メーターほども高く群り立つ蓮の葉の中の水路を入って行く。岸辺から見たときは濃い緑の葉が目路(めじ)のつづくかぎり青々と見えていたのだったが、舟蓮見茶屋で入って行くとただ葉の茎がならび立って密林の中へわけ入った様な情景である。淡紅色の蓮花が上方に咲きつづいて、ようやく朝もやの中に咲きはじめた花弁が新鮮な色彩を見せている。ざっざっとその蓮池の中をかきわけるように入って行く舟先へ、大きい蓮葉のたまり水がばらばらと落ち込む。首もとへ落ち込む朝露にも花の香りがとけ込んでいるように思えて、深い恰紹が感じられるのである。ときどき鴫(しぎ)に似た黒い水鳥が飛び立って私達を照かせる。みずあおいの紫の花、ウォーターヒヤシンスのまる<ふくれた葉茎にまじって、菱(ひし)の実の茎が群って見える。辿池の中に水路の交叉があってそれに伝うように舟が行くのだが、私達は生花に使う述の葉と花、巻葉など手頃の形のものを選択して切って行く。やがて舟の中は葉でいっぱいになり、そのころようやく朝陽が横ざしになってくるのである。(七月八日・京都新聞掲載)このテキストは8.9月八後合併号です。次号は10月発行になります。ご了承下さい。記>ナこ。24

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