テキスト1978
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初はなというものは、私達、花を活けるものにとっては魅力のあるものである。温室で咲かせる早生の花や、抑制栽培の花には華麗な美しさはあっても、自然の香りやその季節感を感じられないのだが、四季のうつり変わりにつれて、自然のままに咲く花には身にしみるような深い季節感をうける。ことにその花のはじめには、花を待つ心のしみじみとして、新しい季節に咲く花をあこがれるのである。三月に入って咲くかきつばたの紫の花、20センチはかりのみじかい花軸に、寸づまりのような若葉の姿に糾室花にない新鮮さを味わうのだが、また、十月に入って秋もようやく定まる頃となると、早咲きの白椿の花を花屋のウインドウにみるようになり、また息いがけなくも水仙の初花を見るのは、ようやく秋から冬への、そのはじめのおとずれをきくような季節感を味わうものである。温室栽培の花のまだ充分でない大正時代には、六Jj‘七月の夏菊、九月に入るとはじめて秋菊をみるようになり、手にとって季節の香りを楽しむのだった。咲きはじめの花を待っ心は、りでもあった。茶道で「名残りの花」のいう言葉がある。夏の花、秋の花の残花をあつめて花入れに活けるのだが、すぎて行く花をなつかしむその心の美しさに深い感動を覚えるのである。桜の季節がようやく終わって若葉の中に残りの花が、深い紅色に咲いているその美しさ、やまぶきの緑の葉の中に残る黄色の花、また秋も深くなって時雨の降るころ、菊の葉も紅葉してひとしお初冬の季節感を党えるのだが、その中の一枝を花瓶に活ける風雅さは、そのころの楽しいいけばなの姿であったともいえる。初はな・残りばな新しい季節をまつ生活のうつり変わc cかえりばなの杜若、白花のバラの二柿を陪黄色の腰高水盤に活ける。上舛形のカキツバタの花と葉、楕円形のバラの葉、この二種の花と葉の形が迩うところがよい配合になっている。色の調和もよいのだが、温和な取合せ、調和はよいのだが平凡な配合ということになる。七月も中旬になると、新鮮な季節の花というものも少く、初夏の花の残花を活けるということになって、なんとなく新鮮さがない。カキツバタもバラもなんとなく弱々しく溌渕とした感じに乏しい花といえる。11 凰

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