テキスト1978
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えて本にするのが目標である。来年の春まで、これがための作品を撮影するわけで、ようやくスタートをはじめた次第なのである。昨日午後6時より午前3時までかかって、「こうぼね」の三作を活け写真にとる。花器、花台の選択も考えねばならないのだが、花の材料をその時間に集めるというのも、簡単なようで中々厄介なものらしい。写真ではこうぼねの花2本と葉5枚を撮彩するのだが、用意したのが花30本、葉30枚という状態、しゃくやく9本を活けるのに約30本を用意してとりかかる。普通に考えれば、こんな沢山の中から選択して活けるのだから、よい花が出来て当然、と思われるのだが、花材というものはいつでも指定した時間に、必要程度の分量だけというのは、これは注文する方が無理であって、花という特殊な尚品では分量が多すぎる、などという方が間違っている、ということになる。(例えば河骨5本程度で遠方の池まで切りに行けますか)というのは当然なことである。材料も中々むずかしいものだが、写真の方も、気前よく午前2時、時でもつきあってくれる。しかも技術の優れた写真師をというのだから、よほど気のあった人でないと引「しゃくやく」「しょうぶ」受けてくれるものではない。幸せにもこれらの条件が最高の状態で、つづけられる見通しであることは、なにより幸せと息っている。三瓶の生花写真を撮影するのに8時間もかかるということは、中々考えられないと思うのだが、実際は少しの休憩もなく、ぶっつづけに努力してこの様に時間がかかる。しかもこの時間内は全く重労働をつづける。考えながら技術をぶっつける、といってよいほどの熱意を傾けるのだが、すぐ写真の出来上るポラロイドによって、さらに修正することにもなる。この作品写真は数日もするとカラーネガとなって私の手もとにくる。それをみて採用、不採用を私がきめるのだが、写真がよくても花が悪いという場合もあり、中々むずかしいものである。昨夜は午前4時に就寝、今朝は午なるのだが、毎日のようにつづいている私のこの時間帯は、これがほとんど習慣のようになっているのである。前10時起休、といった変調なことにこの月号のテキストには。ヘージにゆとりがあるので、少しすきなことを書かせてもらう。これは先生からの注文であると同時にお弟子達の考え方にも反省して欲しいところがあるので、よく読んで欲しい。ときどき私の家へ89話がかかってくる。もちろん未知の人で娘さんが多いのだが「花を習いたいのだが、私は0曜日か0曜日しか習う日がない、時間はこれこれ、そんな先生を紹介して欲しい」「行く場所はどの方面で、月謝はこの程度」といった注文。よほど以前のことだった岡山県の人から手紙で、「自分の娘が京都で生活をはじめるのだが、その期閏に花を習わせたいので紹介して欲しい。適当な先生を紹介して欲しい。但し先生は性格の上品な人であり、生活程度のかなり高い人、教捉のある技術のすぐれた人を望みます」といった内容である。もちろん自分の娘なるものの教捉も性格に関することも少しも書いてない。実に厚顔しい手紙である。もちろん私は返事を書かなかったが、その便箋には返書に要する禎りであろう郵便切手が一枚50円切手で手数をわずらわすという貼ってある。その後、花展の際に顔をあわせることがあったが、私は言葉をかけない様にしている。こんな非常識な人は問題にならないが、かなりの年賄の人達の中には返書の欲しいとき、自分の手紙に返信切手をはってくる人がある。地方の人によくある例だがこれが失礼な厚顔しい形であることに気がつかない人が、まだ少しはあるようである。切手をはっておけば必ず返事がもらえるという考え方もおかしいが、厚顔さに、古い習恨と理解していても、まだこんな人がいるかと改めて照く次第である。切手をはる失礼なしぐさでは先ず返事がもらえない、と考えるのが今日の常識であろう。ついでに、手紙の封筒に「虎皮下」とか「玉机下」とか習慣的に書く人がある。これも古くさくて好ましい形式ではない。これはやめるべきだと息っ。虎皮下というのは「虎の皮を敷くえらい人の下に」という意。玉机下というのは認敬する人のもとに、玉の机のその下に、という意。花を押う人述によくあることだが、桔古日に休む場合、いけばなは材料の用意のあるのが普通であって、自分で材料を持って行く人は別として、先生に花の用意をさせておいて欠席の通知もなく休む人、これは各自において反省して欲しい。休むときは必ず前日に通知すべきだし、突然と休む場合は花をとりに行く、というのが礼儀である。急にお友達に誘われて、という理由もあるだろうが、とにかく、無届欠席ということは習っ生徒としていちばんいけないことである。―つのことを習ってこれを完全な形にし上げるのには、どの例をとってみてもまず十年程度かかるのが普通である。いけばなは五年程度で仕上げることになっているのだが、しっかり身体の一部の様に、技術と芸道としての真実をつかむには、どうしても十年程度の勉強が必要である。形式を知るとか知識としてその内容を知る、いわゆる見る、きく、知るということは三年もあれば充分であろうが、それを完全な姿に作り上げるという技術の完成には、十年でもなお足りない、ということになる。これは日本の芸迫の通念ともいえるものである。人批は永いのであるから幾たびも繰り返して、たとえ―つでもよい完全な教捉と技能を身につけたいものである。いけばなは趣味であって、学問の様に必ず、だれしもが習わねばならぬというものではない。自分の美しい趣味として、心を捉う性格のものであるだけに習う人達の自らの信念が一層必要ということになる。(専渓)私の提言311

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