テキスト1978
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梅柿忠夫氏の「知的生産の技術」という本を読む。そのはじめに次の様な言葉があって私達にもそのまま通じるところがあるので、まずこれを拝借して私の話をすすめたい。ある芸ごとの名人の言だということだが、つぎの様なことばをきいたことがある。「芸ごとのコッというものは、師匠からおしえてもらうものではない、ぬすむものだ。」と、いうのである。おしえる側よりもならう側に、それだけの栢極的意欲がなくては、なにごとも上達するものではない、という意味であろう。芸ごとと学問とではちがうところもあるが、まなぷ側の積極的意欲が根本だという点では、まったく同じだと、わたしは考えている。うけ身では学問はできない。学問は自分がするものであって、えてもらうものではない。」梅綽先生のこの言葉にあるように、ものを習うということは、先生に教えてもらうだけではなく、自分みずからが研究し、術と方式、考え方をとり入れることである、というこの言葉は、全く同感である。だれかにおし先輩や先生の技能楽の「花伝書」に「秘すればこそ花」という言葉があったが.自分のエ夫は自分だけの工夫であって、全くその人の考え出した芸の境地であるが故に教えてもその真実の境地や味わいを出すことは出来ないし、むしろ、習う人逹みずからの刷発によることが望ましい、という意味が言外にあるのであろう、と思うのである。今日、一般に行われているいけばなの稽古というものは、実に気楽すぎる、といっても誤りはない。ものを習う以上はその真実をつかみとることが必要、と思っし教をる側もそんな指導法をとるのが当然なのだが「いけばなの稽古は趣味の程度に」というのが一般的で、「師匠に教えてもらうものではなく、盗みとるものだ」という、芸の先散の言葉の通りに、花の稽古にもそんな気持があるべきだと、しみじみと思うのである。能の稽古には、素人の弟子、くろうとの弟子という、はっきりとした区別があって、いわゆる内弟子的存在は実に厳しく、師匠から筋をたてて習うといった形式はほとんど少なく、折にふれて数えられることはあっても、その日常の大部分が「盗みとるものである」という言葉にある様に、また「学問は自分がするものであって、だれかに教えてもらうものではない」という言葉のように、日々が自らを開発する、自分自身の努力によって芸道の力をあげてゆく、ということになる。.私が京都観世会に柄古に通っていたころのことである。私は索人の弟子として丁寧に教えてもらっていたし、舞の柄古のときも、二階の敷舞台や、栢がかりのある本舞台で稽古をつけてもらうのが普通の様になっていた。そのときの内弟子(二、三人の)の人逹の評古のしぶりを、いつも注意していたのだが、この内弟子さん逹は、私どもの習う舞の型を、いつも見所のうす賠いかたすみに座って、ひっそりと見るのが普通の様であった。そしてその中からなにかをつかみとろう、としているありさまをよく見かけたものである。能会の場合など私逹の索人が出役を終って切り戸口より降りたとき、そこにはこの内弟子の一人が紋服袴で正座して「お首尾でおめでとうございます」と頭をさげる。こんな内弟子達であったけれど、やがて年月をすぎると、丁重に習っていた私など、足もとにも及ばない能楽家に成長されているのを見て、さすが玄人は迩うものだなぁ、と感心したのだった。芸は盗みとるもの、という教訓をしみじみと味わったのである。私達のいけばなの場合も、これと少しも変わらない、ということをお話してみなさんの注意をうながしたいのでこの放送をします。ごらん下さいます様に。四季の味(フィリッピン料理)5月29日(月)午前11時30分私のはなある。専渓桑原素子のお料理放送テレビ放送(毎日.4チャソネル)12

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