テキスト1978
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口□だれだってこれが初めて、ということがあるものである。お花をはじめて習い始めた日、いわゆる入学のはじめ、その記岱はいつまでも覚えているし、何十年と花をつづけている人にとっては一栢、印象の深いものである。私のはじめての花器、ちょうど私の20オごろ先代の師範であった村井慶全氏より花器をもらったことがあった。これが私の花器の第言互であった。支那壷のなまこの壷、40センチ程度の細い花器だったが、よほど賠しかったのであろう、今日でもその形と色、口もと且つきの形まですぐ頭で描き出せるほど鮮明に記樟している。随って私の壷に活けることが出来たその始めである。立派な村井先生の面影をいつまでも忘れることの出来ない私の先鉗として昨敬している。私の父が亡くなったのは大正六年十月十三日だった。十月二日は宅の桔古日だった。私の十八オの秋。この円、すでに数日前から病休についていた父が、私の生花について気になったのであろう、枕頭で生花を活けなさい、ということで寸筒に伊吹の生花を活けた。実は父の前で花を活けたのはこれが初めて、ということだった。にはあまりにも深刻なお話だが、これは事実なのだからこの初めては私にとって大変な初めてであった。その後、どうやら勉強の順序も立ってきたそして人となりの「初めて」というの専渓二十二、三オの頃だったと思う。四条通大和大路東の古道具屋で「二月堂卓」を買ったことがあった。まだ買いなれない頃なので、金十八円也の時代平じ昆、これを持って店を出たのはよいのだが、金を払うのを忘れて呼びとめられたという、初めての買いものにしては忘れられない記録を作ったのだった。はじめての生花会に出品したのもこの頃だった。京極錦天満宮で鉗月ひらかれる京都諸流の糾知会へ、とにかく流の代表という形で初めて参加することになった。ひ珈な息子が危うげな腕前でいきなり他流試合に出ようというのだから、せめて格好よく乗り込んでやれと、寺町丸太町から人力車に乗って会場へ行ったが、これが私の詔流花展への「初めて」だった。さて、会場へ行ってみると各流の大先摯がずらりと屈ならんで生花を活けている。とにかくその中へ席をとって、はじめたのだが、各流の先生達も桑原の息子がどの程度活かるのか、と興味をもってながめている。ようやく出来上ったのを「中々よう入りましたなぁ」といわれたときは、全く汗たらたらの状態だった。これが私の初体験だった。初めてのお弟子というものは、実になつかしいものである。二十四オのころ、学生時代の友人が集まって私の桔古場をつくってくれた。男竹五人に娘さんが三人、これが私の初めてのお弟子であった。それから約五十年、誰れでも「初めて」があって、その「初めて」には人世の中のしみじみとした思い出があるものである。私の作品をつくり専渓筆色彩生花図五0点を収載の予定3、四季にわたる花材を選び、基本型より変化のある花形まで専渓の執筆による解説一流写真家による作品写真「いけばなの四季」「桑原専渓の立花」及びこの「生花百事」を三部作として桑原専慶流三00年の記念事業としたい考えであります「生花百事」の本は昭和五十四年三月完成の予定をたてております。すでに「桜の生花」「かきつばた」より撮影を始めております。御期待下さい。テキスト4月号のおくれましたことをおわびいたします(係)二五0。ヘージ予定(大版)にて収載出版企画初めて「加花年ピ罪」□5 ヽ4 ヽ2 ヽーヽ桑原専渓の生花近作五0点をカラー写真12

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