テキスト1978
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岡山県都窪郡清音村。高梁川の河口から10キロ程度上流になるだろうか、河岸にそうた国道は丘の中腹までせり上がって、この道は高梁から津山へ通っ道路である。伯備線のないころであった。私はこの河岸に立って川向うの、向酒津の村まで四キロほどもあると思われる広い高梁川を見おろしながら、川の中央にある大きい島、その川中島には小山があり松林もあるという、私の印象にはあまりにも大きい川をみながら、日本の風景としてというより、朝鮮から中国へかけての大陸的な風景の様に感じられて、深い感動をうけたものだった。酒津の桜が咲くころ、その公園に近い旅館に一泊したこともあった。川を渡って向酒津の貯水池の桜を見たこともあった。清音村はその後、倉敷市に編入されたとのことだが、この辺りは桑原専慶流の門人が多く、黒田という山裾の村には大熊幾太氏、大熊幸太郎氏など流儀の花を指導される人達が多かった。河岸から少し離れた山手には白壁の長い土塀が、て、倉敷を中心に東へ西へと出向いたことが随分多いのだが、なにしろ五十年にわたることでもあって倉敷、船紋つき山高相の藤野長老を先頭に一場へ向うのである。高い段々畑の上に遠く見えそれが夕づく陽に照らされ実に美しい風景だった。私が流儀のいけばな展のために、穂、玉島、辿島、水島、藤戸、津山、高梁など、高梁川に沿っていろいろの思い出があまりにも多い。私の20オごろ、高梁川の河口に近い霞梢を幾度も渡ったことがあった。倉敷から玉島にゆくその道すがらだったと思つのだが、そのころの霞橋は川の河川敷に二、三丁ほどもある土栢があり、それから二丁ばかりが鉄橋で巾広い水流が流れていた。私達の一行は上流からの強い風に飛ばされない様に足もとを注意しながら渡って行くのだが、色あせた列になってこの長い栢を玉島や長尾の道に向かってゆく。菜の花の黄色く彩る春のころはのどかな村から村へといけばな会の会その後、このかすみ橋が完全鉄橋となり、戟後は橋の西詰に検問所が設けられて買出し部隊を取締る関所となっていた。この霞橋もやがてトラックが通る様になると、交通渋滞でどうにもならなくなって、その下流に新しい霞橋が出来、上流に船穂橋も架橋されて東西の交通が便利よくなった、と京都人の私の見たままの記である。酒津焼という陶器があって、酒津の村に古くからある窯元らしく風雅な情緒をもつ陶器だが、また京都の寛次郎窯によく似た酒津焼もあってその是非はつけにくいが、境土の窯という点から考えると素朴な情緒をもつ陶器が好ましいと思うのである。春の三、四月には高梁川の海に近いところに白焦(しらうお)が多いということである。陽ざしのある川波に白魚の群れがきらきらと光って、実に風情があるという。網を使う漁もよく釣りする漁も素晴らしい、といわれる。西阿知の河岸の広い草地に放牧されているまっ白のやぎの群れをみて、のどかな情緒を感じるのは私の感傷のみであろうか。京都の鴨川にそう様にして小さい高瀬川が流れている。森跳外の「高瀬舟」で有名なこの川は一六00年代のはじめ角倉了以の工事計画によって、嗚JIの水を伏見に通じ淀川に入るまで、十数キロほどの運河の役目をはたしていたのだが、五0センチ程度の浅い水辺を、私の子供の頃はまだ伏見への船が通っていたことを覚えている。川の両端に細い板をわたした通路があって、この道を舟曳きの舟夫が綱を引きながら「ホーイ、ホーイ」2 と懸け声をかけながらゆく姿が印象に残っている。哀調をおびたその声は川添いの柳の垂れ枝を縫う様に、やがていくつかの小橋にかかるたびに器用な動作で橋をくぐり抜け、次の栢にかかるまで力をこめて舟をひいて行く。その頃は、すでに荷物を運ぷ荷舟だったが、これが二条の「一の舟溜り」まで行って京都の終貯駅となっていた。底の平らな板舟で水の浅い川をゆるやかに流れてゆくのだが、いわゆる「荷たり舟」というのか、かなりの荷物を秘んで船頭の男が柿をあやつり、綱を引く船夫の二人組みで、のんびりとこの川を上下するのであった。伏見の三栖の辺りまで幾十にも及ぷ小梧をくぐり抜けて、やがて淀川の本流に入る。その昔、大阪への通い舟として永い歴史をもつこの「高瀬舟」は大正初期に鵜外の小説となって一層、有名になったのだが、今日では舟の姿もなく木屋町や先斗町、河原町の雑踏の騒がしさに鴨JI千鳥の姿さえもあと絶えて、喧喋の巷となった。鴨川にならんで歴史的なこの高瀬川の情緒をまもるために、そのころ観光協会の理事をやっていた私は花の咲<JIとして「かきつばた」を植える様に提案したのだが、実現しないままで今日に及んでいる。専渓丘か阻〗12 橋門

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