テキスト1978
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「てんやもの」という言葉がある。主として関西で使う言葉だが、広辞苑には「てんや」とあって、あきない店、特に飲食店から取りよせる食品など、と書いてある。とにかく、店頭で売る即席たべもののことだが、私は本来たべものには活淡なほうで、なんでも美味しけりゃいいというのだが、これが却ってむずかしいらしい。したがって私のたべる店も大体きまっている。東京横浜ではどこ、高松ではどこ、岡山倉敷、名古屋高山ではどこといったように実に平凡なものである。喫茶店も倉敷ではとにかく民芸館の前の珈琲館オンリーでカフェオーレ、力。フチーノ、ウィンナーと大体きまっている。京都ではいうまでもない。さて、大衆的なのは汽車弁、私も旅行が多いので汽車弁ですませる。ハリやローマには良心的な日本食ことも多いのだが、本来、汽車弁なるものは空腹をみたせばよいという程度のものが多く「贅沢いうな」といった調子で暖かみのあるものがほとんどない。その中で岡山駅で売る三好野の弁当、松坂の牛肉弁当、北陸線今圧の今庄そば、土諧線阿波池田の駅売手打そば、富山駅の鱒ずし、和歌山の小鯛雀ずしなど、まず良心的な駅弁といえる。。ハリからスイスまでの国際列車が発車すると、まもなくジャル。ハックの添乗員の上原君が配ってきた日本食弁当、ごはんに焼魚、かまほこ、玉子巻焼、潰ものまで、あっというほど美味しい日本食だった。のレストランがかなり多い。中にはいかがわしいものもあるが、よく選択すると国内の料理店と変らないものをたべさせる。ローマ市内のビスコンテ。ハレスホテルで泊まった夜、附近の日本食の浜清という料理店へ行く。客はほとんど日本人で満員だったが、日本食オンリーで刺身から味咽汁、野菜料理から漬もの、もろきゅう、すき焼といった様にあらゆるメニューが揃っており、味は日本でたべるのと変わりがない。一人の料金一五000リラ(五000円)程度だから決して高くない。日本陶器の鉢と皿、割り箸というのだから東京や大阪で食事をしているのと同じ、というふんい気だった。イタリア人の料理店でス。ハゲティーを食べたが、これも満員で煙草の煙もうもうの中で大柄のイタリア人の大声で話しあう喧操の中で、不潔らしい大皿にス。ハゲティー料理の粗雑な配給の仕方を目にすると、食欲もなくなり、食べればいいじゃないかといった風景にすっかり参って早々に店を出たものだった。京都の様に目で鑑賞する料理とは全く正反対の精力的なふんいきには圧倒されたのだった。これに比較するとフランスやスイスのレストランは清潔に美しく、たとえばビラトスの高峰の頂上近いところに設営しているレストランも、雪峰の中にあるユングフラウの高山レストランも山麗のホテルとほとんど同じメニューの料理をつくり、その味も同じ様に良心的である。こんな不便なところへきて贅沢いうな、という日本人的な商売気質の感じられないのは、さすがと感じ入ったものだった。フランスの旅行で意外だったのは水の悪いことだった。アルプスの水と称する五合瓶(三OOPJ程度)を買い、旅行するときもそれを持って行くという不便さ、一般のフランス人にはその必要もないらしいが、水清き国土に生れた日本人には駄目らしく、とにかくこれには不自由をしたものだった。コーヒーは日本でのむものは味もよく香りも高いのだが、。ハリでのむコーヒーは不味い。一般的なせん茶をのむ様な気持で気に留めないのかも知れないが、カフェでのむコーヒーも手軽にぐっとのんで終りといった調子で、ワインの様に味わうといった調子でない様にみうけられる。日本では一種の嗜好物としてわざわざ店を選んでコーヒーをのむのとは、少し違う様に見える。フランスのテレビもこれと同じ様に私達からみると実にお粗末である。チャンネルも少ないし、よい番組みも少ない様である。これに比較すると日本のテレビは内容もよいし国民総動員の娯楽物となっている。フランスではテレビなどを見るよりも、それ以上の娯楽がふんだんにあるのではなかろうか。コーヒーの味と比較してそれぞれの生活の迩いの一端にふれる様な思いをするのである。さて、北海道へ旅行したときいちばん印象に残っているのは、焼きとうもろこしの味、並木通りの屋台で焼いている香り、立ち喰いをしながら旅の自由さを楽しむのである。馬鈴薯の衣揚げ、遊覧地の屋台で売っているのだ租熱いやつを、ふうふういいながら食べる味は、やはり本場の味わいだろう。札幌の大通り公固などで売るとうもろこしや馬鈴薯は、ちょうど京都の焼栗の様に郷土的な印象を深く感じるのである。「栗よおーいすやき丹波ぐりーい」と、屋台で炭火を燃やしながら、冬の夜のおそくを売り声をあげて車をひいていく情景を息い起こす。朝鮮の釜山や平壌、鎮南浦などの街角で、まのびた朝鮮語の廿栗売りの声をきいたものだが、このごろ袋入りの朝鮮廿栗の店をみると、哀愁も惜緒もどこへやら、私にとっては錯雑とした想いである。よほど以前のことだったが私は「木曜会」という合唱団に入っていたことがあった。京都の鴨JIの東にある幼稚園の音楽室を教室にして、会員六、七十名が集まって毎週木曜の夜、練料をするのだが、私とそのころ私の助手であった平川理慧子岩といっしょに短い期閤だったが練密に通ったものだった。練習を終ると午後9時をすぎる。冷をきった冬の夜、京都御所の北隅、今出川烏丸の交叉点にホットドッグの屋台があって、いつも同志社の学生などが群がっているのだが、寒さと空腹の私達もその屋台の前に立って焼上がりの順番を待っていたものだった。下手もの屋のたべものの中には郷愁に似た想い出があって、人世の中の詩趣が感じられるものである。専渓12 てんやもの

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