テキスト1978
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私の十六、七オのころだったと思う。その日は大津の公会堂でいけばな会があった。をして最終日のその日、十一月の中頃だったと記憶している。昔も今も花展の終日というものは大変なもので、ことに自動車などという便利のよいもののないころである。少しかさ高い荷物というと荷車にのせて運ぶのが、普通という時代のことだった。大津の北寄りであった三保が崎、疏水のとり入れ口の附近に木造二階建ての大津市公会堂というのがあって、これを会場として「桑原専慶流展」が催されたのだった。かなりの花展だったので京都から運んだ花器も数多く、ことに大作がすきだった父の好みもあって、となるとそれらのかさ高い荷物を京都まで持って帰るというのが、大変な仕事だった。とにかく、荷車三台に放んで京都まで帰ろうというのである。そのこ二日ほど前から陳列える。午後五時から大津を出発してそのさて花展が終る専渓ろ私の家には若い衆が三人、丁稚(でっち)というのが二人おり、それに私、父の六十才ごろだったが、ス。ハルタ教育のすごい親父さんで、息子も丁稚小僧も区別なし、という厳しい躾(しつけ)をうけたものだった。そのころは一般的な習慣として良家の息子ほど、その少年時代は大きいお店へ見習いに入り、丁稚小僧の下積み生活の体験をうけるのが普通となっていたので、肉体労働も当然ということになっていたのである。学校教育とともに労働が家庭教育の大切な条件となっていたともい頃の大津街道(旧道)の土の道を、かなり重量の荷車を引っぱって、ごろごろと約三里を歩いて行くのである。二台は番頭三人で引き、あとの一台は私と正吉という十五オの小僧の二人、逢坂山を越えたころにはすでに日も暮れて、街灯などというもののない山あいの道を、手先き車(二輪の荷車)のかじ棒を私が持ち、正吉が先き引きという分担で、今日のアスファルトの道路など考えられない土の道を、急ぐこともなくあきらめきった気持で、ただ黙々と道を歩くのだった。車の輪の音はごろごろと限りなくつづいて行く。私達の足音はたったっと、単調な音を繰り返して京都までの道。普通に歩くと二時間ほどで帰りつくのだが、荷車を引く場合はこれが非常に短縮されて、足早やに歩く関係からか意外に早い。すでに夜に入った暗い道を車の音に歩調をあわせて前方へ前方へと足を早める。土と埃の遊が後へ後へと引きさがって行く。荷車には「ぶらりちょうちん」という、油紙ではりつけた丸い形のその頃の照明具がつりさげられており、これが車の動揺につれてぶらりぶらりとゆれ動く。もちろん蝋爛の明りでそれが丸い光の輪を逆路に描いている。十六オと十五オの二人が変化のないその光りの輪をながめながら、単調な土の道を歩いて行くのだが、疲れきった私達はいつしか意識もうすれて、うとうとと眼る。眠りながら歩くのである。ごろごろ、ごろごろと車の輪は動いているのだが、私の足はおくれがちになり、そのたびごとに後方にある車の鉄棒に足をぶっつける。痛さにはっと眼をさまして歩調をとりもどすという状態を繰りかえしながら、それでもようやく御陵をすぎ蹴上げの坂を越えたときの嬉しさは、忘れることの出来ない思い出となっている。素朴な時代のそのころは、一般的にこんな生活が普通だったに迩いないと、思いかえすのである。車i12 道合

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