テキスト1977
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':」~:899新しい考案による「松の立花」のだが、銀座高島屋で「いけばな日本展」というのが開催され、関西より代表ということで招待され私も出品することになった。今日の「日本いけばな芸術展」の様な大きい企画のいけばな展で、私も折角出品するのだから、自分らしい個性のある作品、それに会期も備いので日持ちのよいものと考えると、結局「立花」ということになったが、それも普通の作品では面白くないし、今日的ないわゆる現代感党のある作品と、段々理想が大きくなり、とにかく、東京まで持って行く条件もあり、日持ちのよい「松一式」の立花、それに新しい感覚のある作品というところに目標を定めて、作品にとりかかった。生込み日の五日ほど以前から京都で花器から作りはじめたのだが、掲載の写真の様にコンクリート作りの変わった調子の造形作品を作り、それを花器に使って松の立花を立てることにした。15年も以前のことだった。記憶も大分おぼろな数日前、テレビで「東大一00年」という番組を見た。その映画の中に安田講堂があった。私にとってはこの安田講堂に深い想い出があり、私のいけばなにも関係のある話なので、古い想い出をたどりつつ書いてみることにした。生込日の前日、東京へ着き、かねて依頼しておいた湯島のある旅館に入ったのだが、なるべく庭の広い日本旅館を希望したのは、松の葉に水を打ちたいためで、とにかく材料のためには宿のよしあしなどいっていられないという気持だったのである。夕刻にはまだ時間のある明るいころ宿について、それぞれ材料の整理をし、さて夕食には時問があるので附近の東京大学へぶらぶら歩きの散歩に出かけた。こんなに書くと至ってのどかな感じに見えるが、実際は明日の生込みにはどんな作品を作ろうかと、心いっぱいに思いを廻らしていたのだった。大変、横碧な話かも知れないが、松の樹の材料はかなり秤類を集めて持って来ており、また松の葉組みも数多く作って来ており、それを会場で打ちつければよい程度まで準備が出来ているのだが、肝心の花型、どんな形に作るかということについて、前日のこの時間ではまだ定まっていなかったのである。そんな次第で東大の構内へ入って静かな学部の庭を歩きながら、どんな花形がよいだろう、とにかく新しい形を考えつきたいものと一時間ばかりも廻り歩いて、やがて赤門からふたたび構内へ入ったとき、前而に見えたのが、この安田講党だった。掲載写真の安田講棠を見たとき思わず足をとめて、「これだ」と心にときめきを覚えたのだった。安田財閥によるこの建造物は有名な赤門の正面に厳然とそびえ立ち、伝統と品格をかね備えた悠然とした感覚をもって私に強い教示を与える様に思えた。私の心は決った。私の明日の作品はこれをアイデアにして立花を作ろう。江戸時代の大名邸の壮\ 建造物と創作立花専渓

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