テキスト1977
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R満開の八重桜なんてだけれど、もしなにかつけたいというのであったなら何をつけたら調和がよいか。昔のいけばなの本をみると中々よく考えてあって、まず桜に松を添をる、ことに山桜の開花に松など趣味もよく雅趣があって好ましい。また桜を水盤に挿けて足もとに季節におそい万年青をつける。これ一種で充分も昔の伝書にある生花図だが、今日的な配合ならば厚もの桜に青業の山木を添えた瓶花など、桜にシンビデューム(洋閣)の堅いつぼみに葉を添えて活ける様な瓶花、軽い桜の枝ならば野菊(都忘れ)を小旦つけたのも美しく風雅であろう。とにかく淡泊なものを好んでつけるのがよい。Rの瓶花は八重桜にすかし百合の堅いつぼみを添えて活けたが、百合が咲いてくると賑々しく感じがよくない。桜の花と百合の花を上下に離して活けているのも、なるべく華美にすぎぬ様、そんな配応をしているのである。花器は黄褐色の飴ぐすりの色調の陶器で形が変わっている。上部の中央に4センチほどの丸い穴があり、それへ挿しこんである。絵画、彫刻その他いろいろな美術作品をみると、作者によってそれぞれの個性が作品にあらわれている。絵を通してみる画家の考え方や、その作風、技法、色彩の用い方など、それが作品の性格を作り上げているのだが、私逹のいけばなの場合もそれと同様に活ける人の好みや、花形のくせ、材料のとり方など、あれはあの人の個性だと見る人に感じさせる様な作品があるものである。教捉の深い人はそれらしい好みがあるし、これと反対の場合もある。かなり長い期間いけばなを勉強して充分技術を修純した人逹になると、すでにその人らしいーつの型‘―つの好みというものがいけばなの中にあらわれてくる様になり、見る立場からすると「これはだれの作品だ」とすぐわかる様になる。少なくとも5年以上は勉強しないと中々個性のあるいけばなが作れないが、これは作品として必要なことで、自分の意志が作品にあらわれる境地というものは、しっかりといけばなを自己のものとしている境地であって「私は私」という自信のある作品ということが出来るのである。思うままに活けたその人達の作品を見せてもらうのは実に楽しいものだが、よく見つめてみると、その個性のある作品にはよい好みのいけばなもあり、あまりよくない好みだな、と思われる作品もある。作品の中に自分の個性を作るまでは相当、長期問の努力を要するのだから、同じことなら誰が見ても好ましい傾向の、誰がみても美しいな、と思われる様なそんな好み方をするのが最もよいことだし、花形とそれを作り上げる技巧の中にもそんなくせ、調子というものが自分でも気のつかないままに、作られて行くものだから、出来ることならいちばん要領のよい、人に好まれる様な迫すじを自分で発見して「これは私のいけばな」といったよい個性をしっかり作り上げて行くことである。自信のある自分の方針、いけばなの中にある「私の言葉」ともいえるものを、少しでも早く作り出すことが必要なのである。誰が見ても美しいな、と見えるそんなよい花形や色の好み方や、材料の選び方をすることが大切である。R さとざくらすかしゅり2

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