テキスト1977
22/148

しんばいR青竹を切ったついでに、これを花器に作ってみた。よくある手だが意匠的に中々美しい趣味のものである。竹を花器として使い、枝についた竹葉も花形の一部としてみる。竹筒に水を入れるので竹葉にも水を充分に補給することが出来るという計算である。紅椿、白菊、バラなど一種をこの花器に入れるのも調和がよいだろう。写真の花は小型シンビデュームの一種だが、竹と蘭という古い好ましい取合わせを洋花にかえたことになるのだが、色彩的にも形にもよく調和がとれている。竹の枝の太いのがこの作品の欠点である。黒い薄板によく調和していると思う。(2月27日大阪サンケイホール大名」「庵の梅」「真奪」などがある。が趣味として流行していたことを題材にとりあげて、物語を構成しているのが興味深いし、またその時代の花道を知る上にも貴重な文献となっている。て、立花という小書がつくと舞台に自然のままの花を材料にして、立花を組み立てることが形式になっているのだが、狂言の真奪ではアドが花包みの花を「もちもの」にして舞台に出てくる。天下治り目出度い御代なれば彼方此方の立花の会はおびただしい事で御座る、さてそれにつき某も明日は何れも立花で申入るる筈でござるが、この間はよい真がござらぬに依て今日た東山の辺りへ参り、よい真もあらば見つくろうて切って参ろうと存ずる。」かけ、アドが持って出るのだが、これには季節の花をとり揃え、その中に松を一枝添えて包む狂言の中に花を主題に扱っているものに「萩中でも真奪は室町時代の大衆生活の中に立花能の「はじとみ」に立花供養というのがあっ「これはこの辺りに住居致すもので御座る、という主人の発声によって物語がはじまる。「花包み」という古い形式の紙包みに水引きを→ において開催のサンケイ能のパンフレットに掲載の原稿)立花をとり入れた狂言(真奪)のが約束になっており、この松が立花の真を象徴しているのである。東山へ立花の材料を採集に行く道すがら、真を奪いあうという狂言らしいユーモアが展開してゆく。千作先生の弟子として私も三回ほどこの真奪に出演したことがあるのだが、花をとりあう内に花びらが舞台に落ちて、いかにも実感が出て而白い。江戸時代初期から伝統の立花師の家に生まれた私は、このごろでも立花を作るたびに材料を集めるのに苦心するのだが、この狂言の中にある東山へ材料をとりに行くという、その時代ののどかな風景を考えると、その風雅とのんびりとした環境にあこがれの様な羨望を感じるのである。狂言の作品には庶民大衆の生活描写と、それにユーモアたっぷりの武家大名などをからませた喜劇的な要素のものが多い。外観的には面白い狂言であろうけれど、その演出には美しい技術と、なにより大切な品格が要求される。日本の伝統芸術には笑いを楽しむというものが意外に少ない。その中に狂言は批界的にも特異な立場をもっているものであり、また一方には室町から桃山時代の庶民の生活環境や思想を、今日に伝えている点にも深い興味を覚える。専渓6R

元のページ  ../index.html#22

このブックを見る