テキスト1977
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<iLi心このごろの男性の生活はほとんどが洋服ですませることになったので、袴などをつけることが少なくなったが、私達、おやじさま連中は洋服よりも和服のほうが落若きがあって、ごらんになってもほっとされるのではないかと、そんなことを考えつつ思いつくままの雑話を書いてみる。い。たくましい長身のスタイルはアその他のヨーロど変わりのない堂々としたものである。りも日本人らしく和服のほうが体格的にびったりするようだし、和服羽織に前垂れがけ白足袋という商家の旦那風の、少し時代的な格好が、実際はいいのではないかとつくづうのである。最近の若い男性は実に格好がよメリカ人は別としても、フランスやッパの男性とほとんそれに比較すると私達の明治大正のおやじ族は、どう考えても洋服よこの忙しい時代に男性の和服など到底考えられなくなって、和服を売る呉服関係の店員の皆さんもすべて洋服ということになって、これも能率第一の生活の知恵ということになるのだろう。さて、男性の服装の中に「袴」がある。平素あまり必要もなく袴なんて時代的なものは作りません、というのが常識の様になっている今日、大分古い、といわれるかも知れないが、巧く若用すると中々格好のよいものであり、なんとなく儀式めいて男性の袴姿には若い女性さえも襟をただすという、息わぬ利待がある。棗京に一麻、京都に三高というそんな時代、よれよれの袴をつけて厚歯の下駄、破れた帽子に白線を巻いて「くれないもゆる丘のうえ」と盛り場を流していた袴姿。全く格好いいものだった。そのころ私は中学時代、学校から帰ると制服から紺がすりの箇袖の普ものにかえ、小倉という木綿のゴワゴヮした縞の袴に狩がえをする。しよれよれの方がおしゃれで、素足に厚歯の下駄をはき、学生杞子というのが得意の姿だった。これは母親の趣味でもあったのだが、これとは別に十才ごろから能楽の仕舞の柄古に通っていた関係上、は袂(たもと)の呼ものをきて、この場合はしゃんとした織目の袴をつけて、三十センチほどの舞扇を腰にさし込むと、なんとなく形も心もしゃんとして京都御所の松林を広小路まで、四、五人の腕白小僧といっしょに通いつづけたものだった。そのころは袴になれている関係からか、これさえつければ一応上品に見える便利のいいものだったし、電車や階段の乗り降りにも要領よくやったものだった。さて、時代が変わって舒物や袴などという服装がはやらなくなると同時に、白足袋から糾足袋となり、やがてネクタイの結び方を考える時代になった。服装改革というのか、子供のころから毎日つけていた袴も駄目ということにな‘いつしかワイシャツ、ネクタイり少この稔古日にという現代服に変わってきた。今日では洋服などという言葉さえも古臭く感じられ、スーツ、プレザー、スラックスなどというのが一般的になって、男性の若物姿などほとんど見られない、ということになった次第。能や狂言では袴をつけることが多い。ことに狂言では室町時代の庶民風俗のうち、僧、大名、廊人、座頭など役柄も種類が多く、太郎冠者の軽やかな袴姿から大名の長袴までいろいろだが、楽屋でつける衣裳つけも中々むずかしい。楽屋では二人がかりで出演者の衣裳をつける。内部の肌衣胴衣から袴まで、しっかりとした男性が力をつくしてしめつけるのだが、最後の袴をつける段階になると、大名の姿も太郎冠者もそれらしい姿におさまってくる。すそさばきのよい様に袴をつけゑ則にすそもとの棲(つま)を帯まで折り上げて、太い腰ひもでしっかりとくくりつけ、そののち袴をつける。帯より低く袴をつけ力をつくしてしめ上げるのだが、この袴のつけ方によって演者の姿がよくなる。充分鍛練した演者はどんな動きのはげしい役柄でも衣裳のくずれることもないが、未熟な出演者はわずかな時間でも衣裳がくずれ、ことに袴の調子が悪くなり姿全体がくずれる。男性の袴は腰低くつけ、しっかりと強く紐を結ぶこと、腰で袴をつける様な気持が必要である。(専渓)12 袴〗

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