テキスト1977
111/148

私の父は、私が十八オの時なくなった。その頃の私はいけばなの勉強もまだしていなかったし、父は名人気質というのかまだ年若い私に花を教えるということもなく、私もそんな気持にもなっていなかったころなので、とにかくその中でいちばんむずかしい立花などというものは、全然わからない時代でもあった。しかし、伝統の立花師の家に生れて、子供のころから父の立花づくりを見る機会も多く、ラン。フのうす暗い光を照明にして(照明というそんな気のきいた言葉もなかった)幹作りや松の葉組みなどを見ているうちに、基礎的な仕事を見覚えたものと思っている。松葉が火鉢の炭火で焼けるにおいや、組み立てられていく立花の真(しん)や請(うけ)の形が後の壁に大きく拡大されてうつされているその残像が、私の目に奥深く残されているのだった。本願寺の立花師だった父は、私を手伝いの若い衆の中にいれてよく連れていった。私も致しかたなく連れられていったのだったが、今にして思えば、いわゆるくろうとの修行としては手にとって教えるまでもなく、仕事として現場に打ちあたるという、そんな教え方であったのかもしれない。私の「立花集」について専渓その後、どうやら一どに立花を出品することが重なるにつれて、ようやく私の立花もみとめられるようになり、とにかく、ひとくせある桑原専渓の立花として、意外にも多くの方々にほめられるようになった。どう考えても、私は巧いなどと考えたことは一度もないが、数ある作品の中では、これは意外によく出来たと思うことも時としてある。伝統の約束にとじ込められる様な花が、あまり好きでない性格の私なので、私の立花も私なりのひとりよがりかもしれないと思っている。とにかく、このたび一年がかりの作品集がようやく完成する運びとなった。よくがん張ったものと、自らをいとおしく思うほど、努力を重ねたが、出来上がった作品写真をならべてみて、つくづくむずかしいもの、と思つのみである。よい作品だけをよりすぐる、などということは望ましくして実現されることではない、とはっきり思いしらされたことが、いちばん大きな収穫であったかもしれない。昨年春の「桑原専渓個展」を終わってまもなく五十年記念に関連した事業として、かねてよりの私の希望であった「立花作品集」の出版を企画した。この仕事はいいやすくして中々大変な計画なので、はたして希望する様な完全なものが出来るかと、全く不安だったのだが、いよいよその実行についての具体案をつくってみると、ちょうど高峰を見上げる様な大きい計画の様に思えて、いよいよ踏み人前になって花道展な事である。は、だった。月より八月までの期間に書きつづけたが、またこれに、私の色彩立花圏を約五十枚かき添えた。これは好きな仕事なので一日二枚ずつ一種の装飾の役目を果しているものと思う。変な仕事であって、しかもよい作品を作らねば、という条件を課されているだけに、私にとってはむずかしいことであった。出すまでは、かなり考屈を重ねたものだった。昨年夏よりはじめて秋冬春夏と季節の立花を約五十作っくること、その解説に要する原稿執筆のこと、作品図を約五十枚を描くこと、その編集などいずれを考えても大変な仕しかし、今日9月)になってふり返ってみると、このむずかしい問題をそれぞれ解決して遂に完成した、という喜びは私にとって実に大きい。主婦の友社より発行することになり、写真は同社の宇垣健次氏に依嘱することとした。作品に必要な材料についても特殊なものであるだけに随分心配したものだったが、花藤の藤井一男氏夫妻の深い協力によって、作成のたびごとに材料蒐集に努力してもらったこと実に幸せだった。作品制作と、写真撮影は咋年九月より今年八月まで約一か年にわたる約十回。その三日間はほとんど不眠不休の状態で作品に打ちこんだ。ずいぶん重労働を重ねたものこの本に関する私の原稿、約七00枚を五日を重ねて書いていったが、これも本の中に三日間を通じて立花6作というのは中々大(52年品(6作)づくりと撮影に三日間をかける。一回の作23

元のページ  ../index.html#111

このブックを見る