テキスト1976
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がおきまりの様になって、花器も技法も花材も伝統そのままの古い思想のままの生花になってしまうのではなかろうかと、こんなに考えつくのが当然だと思うのです。なにか生花の中に新しい空気を入れかえたい、明るい感じのする生花を活けたいと思うのが当然であります。伝統の約束を知ることは実に大切なことであります。また、伝統の技術を身につけることも、どんな意味にもしろ生花を大成するための必要な条件です。しかし、これと同時に今日の時代に調和する生花、今日の生活に調和する生花、そんな点にも心をとめるべきだと思うのです。古い生花を活ける人逹は花形を美しく作ることを第一に念願しますが、その作品の色調については案外に無関心の人が多いのです。花の色を考をるのは当然であっても、その考え方が平凡であり消極的です。花器にしても生花の花器の形を考え、そのバランスを考えるのは当然ですが、この考え方も平凡であり習慣的なものが多いのです。今日の花器を考え今日的な色彩のある花を選択しようとしません。古い生花の使う花材はおよそきまっています。その配合さえも定っている、といっていいほど常識的な材料が使われます。古風な花材がよくないとはいえないが、それと同時に明るい花材を生花に活けて視代的な香りのある作品を作りたいと思うのです。日本花が古いとはいえないし、洋花が新しいとはいえません。例えば太いグラジオラスは上品には見えないが、細い紫花のグラジオラスは品のよいものです。椿の生花は小さく活ければ上品に感じられるが、大きく活ければ下品になります。洋蘭のシンビジュームの大型の花は品が悪いが小型ヽソンビジュームは美しく上品に見られます。帯化エニシダや帯化柳の枝先の曲がったものを数多く使うのは下品に見えるが、少々ばかり入れたのは風雅に見られます。花形にしてもあまり曲線にまげた花形は下品に見えるが、淡泊な調子の形は上品に見られます。意匠の過ぎた花形、いわゆる愚鈍とも思える様な過ぎた技巧。これらは品格も悪くいかにも古父い感じをうけるものです。新しい袢花がよいとも言えないし、古くからある花材が悪いともいえません。要は、古いものを新しく見せ、新しい花材でもよく選択しないと決して新しくは見えないものです。要は、活ける人の考え方によって古くもなり新しくも見せることが出来る、これが作風とでもいうか、作品の風格というか、その定まるところが大切なのです。このテキストに活けた花は、これまで普通にある材料、見なれた材料が多いのですが、それを花形と花器によって、清楚な感じ、また上品に見える様につとめて工夫をしていますし、花材と花器の調和についてもかなり工夫したつもりです。5@

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