テキスト1976
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に簡素の中の美しさ、という点が特に尊重されます。一本の枝の線、一枚の葉‘―つの花の方向さえもきびしく考えて、その集積によって簡索にして清潔な美をあらわそうと考えます。これは盛花、瓶花にない一っの特徴といえるものです。古い中国の文学(漢詩)に格調派いとう流派があって、高い思想と雄大な表現を重んじた作風が、この「格調」という言葉の語源になったといいますが、この高い作風と「けだかい品位」を重んずることが、伝統芸術には最も必要だというのですが、私達の生花にもそのままあてはまる考え方であります。「花追」という言葉には、そんな「心のもちかた」を作品の上にあらわすべきだ、という考え方が宗教的な「道」という言葉をつけ加えたものと考えられるのです。しかし、今日では「道」だけでは収容しきれない「いけばな芸術」の発展があります。ただ、その中に「生花」という一すじの清冽な作風があって、この日本のいけばなの伝統の美を志す人達は、あくまで伝統生花の真実のこころを忘れてはなりません。伝統芸術には形式があります。生花にかぎらず多くの伝統古典には形式があって、時として、その形式があるが故に伝統芸術だと思われやすいのであります。生花の正しい解釈は先号でのべた様に、その道すじを知るための形式であって、その形式におぼれてはならないものです。生花の形式と自然草木との調和、そこに作者の自由考案というものがあって、優れた生花には、この自由考案をことに尊重するのです。明治時代から今日に至る生花の道すじには、その創作精神を忘れて形式を知ることに満足し、形式をそのまま写すことが最上であるという誤った考え方が、技術があっても考案のない、まして創作的な考慮のない低俗な「古い生花」の時代を作ってきたのです。伝統の心をまもるということと、形式を写すということとは、その精神において大変な相迩があります。古い生花を活ける人は、ただ約束だけに興味をもち、その作品の美しさについて責任をもたない人が多いのです。どんなに生花の「ものしり」であっても現実の作品が低俗であっては意味がありません。約束は形式であって一瓶一瓶の生花の真実のよさ、その作品の価値とは別のものです。いけばなは現実の作品が立派であるか否かの問題に重点を置くことが大切であって、形式はその作品の力向を定めるための道標ともいえるものであり、その背後にひそむ性格のものです。私逹生花を志すものは実際の作品至上主義に徹することが、なにより大切であります。こんな花形を二管筒(にかんづつ)の生花といいます。写真の作品は左方長い筒に「つつじ、ツルモドキ、つばき」を人れて、これは右勝手の草(そう)の花形。右方短い筒に「すいせん」を入れて左勝手の真の花形です。大小の花形のうちに花材の醐和のよいものを組み合わせて、美しいバランスを考えています。風雅な意匠的な生花ですが、技巧にすぎない様に注意することです。専渓3

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