テキスト1976
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Rクマジロバラン(アサヒバラン)と白花のテッセン。特に変わった材料ではないが明るい感じの瓶花である。花器が洋風形式の形であるのと配合が変わっているのでそんな感じをうけるのだろう。バランは葉ものの中でも平凡な形のものだが、これは葉先が白いのと、テッセンの花の白とが緑の葉の中にあって、ひときわ清新に憾じられるのであろう。バランを前向きにならべてあるのも普通の挿し方とは迩った調子である。緑と白と花器の形との組合せによって変わった調子をみせている。六月のはじめ京都の平安神宮で催される「たきぎ能」は今年で二十七回目だそうである。私はそのはじめの頃からずっとつづけて拝見しているのだが、神前奉納の能ということにはなっているこの催しが近年いよいよ大衆的になって、一種の野外ショーの性格をもつ様になり、能楽堂で見る古典鑑賞というのとは大分かけ離れた年中行事になってきているようである。今年、京都能楽会からたのまれて、当日の。ハンフレットに私が随筆の様なものを書いている。「燃える火というものは神秘的なものである。ことにそれが神社の広庭で見るかがり火である場合、一層、深々とした荘厳さを感じるものである。おおい茂る社頭の樹立は黒々として夜のやみだがその中にところどころ節にた<火があかあかと燃えており、私逹はそれをかこんで手をかざしながらまるい人の環をつくる。時々もえつきた簑火の中へ新しい薪を投げ入れると火焙がぱっと燃え盛って私逹の頻や身体を赤々と浮き出させる。私の子供のころの能舞台には夜になると、ところどころ燭台を立て、そのころ百目ろうそくといわれた太い蠍燭に灯をつけて照明にしたものだった。風に灯火がゆらめいて舞台への光もゆれ動くにつれ、折からの演者の面も衣裳も灯火に照らされはげしく動く荘厳の美しさや、凄然の躍動美を深く感じられたものだった。」専渓平安神宮の広庭に薪能のための舞台が作られ、それをとりまく様に観覧席が設けられている。六月の夕暮れが少しくらくなったころ火入れ式が行なわれる。設備された節に火を入れる儀式だが、これをみてようやく「神事能」だな、という思いがするのだが、年々盛んになるこの薪能は、やはり大衆的な野外ショーといったほうが適切なように思えるのである。平安神宮の薪能(たきぎのう)6

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