テキスト1975
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上高地の朝は冷えびえとして、晩秋を思わせる様な肌寒さであった。八月のはじめというのに昨夜はホテルのロビーに設けられた暖炉に白樺の木をたいて、宿泊の皆さんとともに夜おそくまで雑談の花を咲かせて山小屋の情緒を楽しんだものだったが、今朝はすばらしいよい天気、上高地では珍しいといわれるほどの晴天だった。前庭の白樺の森のはるかに槍が岳が高く聟えて、その斜面が朝陽をうけてオレンジ色にかがやいており、焼が岳は左方に意外に低く見えその名の如く黄褐色の山肌が雲表を抜いて見える。実に美しい。梓川はエメラルドグリーンの水色が、川底の小石まですき透って見え、澄み切った空気の中を悠々と流れている。その川岸の朝露の道を四キロほど歩く。笹葉の中にタケニグサ、ヒルガオ、おそ咲きのヤマブキの黄色、狸々ばかまの朱色、ウバユリのにぶい白色の花が咲いている。狸々ばかまは15センチ程度の短い草花だが、その形と花色がしずかに風雅な感じの花である。日本の古い時代の衣裳を感じさせるような、さびた紅色の小さい花で、これは京都の北山にも咲き、徳島市背後の眉山でも見たことがある。狸々ばかまとはやさしく優美な花の名である。能楽の狸々の舞に着用する袴の緋色からつけられた名といわれるが、日本の野草には伝統の物語から名を選んだものがことに多い。フタリシズカ、オトギリソウ、クマガイソウ、アッモリソウなどその類である。京都の清滝川と保津川の合流点に落合(おちあい)という名所がある。その川の合するところに高さ15メーターあまりの聟え立つ巌石があって、それに「定家かづら」が一面におおっている。藤原定家郷の名をとったものだが、この蔓状の草はそれほど珍しいものでもなく、少し深い山に入るとすぐ目につくものだが「定家かづら」とは実によい名をもらったものである。さて、梓川の沼にはスイレンの白い花が咲いていた。日本の野生のスイレンは白花の小花で「ヒッジグサ」という古名があるのだが、栽培の大輪のスイレンと違って、ひそやかに咲く様な佗しさをもつ花である。上高地から乗鞍岳への道は自動車で約一時間余、白樺の林と五葉松の群落の中につづく山路をいく曲がりして山頂に達する。その道の斜面の草原には女郎花が黄色く咲きつづき、朱色の鬼百合の花が点々として専渓15センチ程度の高さで咲いており、目につく。山頂にはまだ雪があった。広い斜面は雪におおわれ、黒い巌石と短い緑の草原がその境界を作っている。広い草原の中に黒百合が咲いている。すでに花期をすぎているのだが、緑の葉と黒褐色の黒百合の花はそれに交って紫ばなのオダマキソウがある。イワオトギリソウの黄花を岩の間に咲いているのを見つけ出したときは、思わず胸をはずませたものだった。山に咲く花、沼と川、草原に咲く花は随分多い。私の様な植物の知識に乏しいものでも、多くの花をみつけ出すことが出来る。山と野原を歩いて思いがけない花を発見し、つくづくとながめる瞬間は、ただひとりにのみある楽しさである。私ひとり野原を歩いて草の中からいろいろの花をみつけ出す。また、花は私に言葉をかけてくれる。百合もりんどうも、山あじさいも姥百合もみな私の友達である。比良の山では、オトコメシ、フジバカマ、トリカプト、シラヤマギク、ショウプ、カキツバタ、サワギキョウ、ミゾハギ、ノギク、ワレモコウ、イワナシ、ヤブコウジ、イワカガミ、ツッジ、シュンラン、など春から秋へかけて咲く花がことに多い。十――月のころ深い紅色に染めた岩鏡の葉、岩梨の紅色の花、比良高原のツッジは細く高く立ち、秋に入③ って紅葉の中に返りばなが咲く。るいるいと群がった岩石の原に見える限りひろがって生植する自然の群落は実に見事である。「やくもが原」の高原の湿地に咲くミゾハギの赤紫の花と緑の葉、清冽な川水にゆれて茎が動く。水辺の沢桔梗は青紫色、池のヒッジグサの白花とともに咲いている。河原撫子はどこの山野でも咲くものだが、その生育する場所によって姿が異るものである。山の撫子と水辺の撫子とは茎の状態が違うし、ことに大きな河の泥に咲くものは茎も太く花も大きく美しい。ここに私の描いた絵の河原撫子は余程以前に滋賀県安曇川河口で採集したもので、湖辺の風に茎も曲がって面白い調子のものだったが、花も大きくのびのびとした材料だった。活けて写生しておいた保存の絵である。秋のキリンソウ、ギボウシ、宵待草、アワモリソウ、ヤプカンゾウ、トリカプト、クカイソウ、オオテマリ、アヤメ、カラマッソウ、シモッケ、ワレモコウ、ヌマトラノオ、タケニグサ、キンバイソウ、シュウ、カノコソウ、キキョウ、リンドウ、など。以上は伊吹山で私の見た花である。大体七月から九月までの花だが、それ以外の季節の花も随分多いことだろうし、私の歩いた場所、以外にも珍しい花があるに違いない。ただ、私の目につくのは主としていけばな材料として使える程度のもの、ロソ野の花10

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