テキスト1975
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、q(9ページの掲載写真)私の目的は、桑原の伝書「立花錦木」に記録されている法泉寺を訪問すること、法泉寺歴代住職のうち桑原専巖の高弟であった一倫師について解明すること、またそれに関係ある西方寺僧絣某師の事珀を聞べること、なお江戸時代から明治期に至る、鳴門在住の当流師範の業跡を調査すること、であった。市役所に保存された撫養町の歌人、俳人、茶花道家などの名簿を記した番附様の印刷物を見ることが出米た。花追家の名が六0名程度あり、これが桑原専慶流の明治期の師範家の人達だった。私の幼少のころの記船にある因回、この中に「度」の花号のつく喜羽炭思、湯本巖草、泉股花、三田慶雄氏などの名も見えている。市役所の人逹は大変な熱意をもって私を迎えて下さったが、その後、富旧耕作氏、岩村武勇氏と共に立花錦木に記録されている「法泉寺」を訪れることになった。市役所から1キロほどの附近に法泉寺があった。これは真宗西本願寺派の寺院で、同宗派としては別院クラスの立派な寺院だった。職が江戸時代の桑原専度の高弟だったかと思うと、ひとしおなつかしかったが、考えてみれば桑原家は代々真宗西本願寺の立花の宗匠として本顧寺に奉仕してきた事蹟とを思いあわせて、この寺との閑係も同宗寺院として当然あるべき姿と、その頃を回顧するのであった。① 市才田)住職赤松師の懇切なお話と過去帳などを打見したが、「立花錦木」にある一倫師というのは雅名らしく、年代を考えその頃を考えてみると、当時十代の順了師(立政九年歿)にあたる、と考えられ、また第十一代の住職は絣了師であって、この人は徳島県名西郡石井町西方寺より、この法泉寺に捉子に入った人という。従って、立花釦木にある「法呆浄刹」というのは、この法泉寺のこと、文の執筆者である西方寺僧辮誌とあるのは、西方寺より法泉寺に入った耕了法師である(天低十二年歿)と考えて誤りはない。との事だった。は、西方寺の僧耕了師がこれを略して「緋」と書き、誌とあるは誌す(しるす)の意であろうと考えられる。さて、名西郡万井町の西方寺はこの流儀の多い鴨島町に近い山すその寺院とのことだったが、私の旅程の都合もあり、西方寺訪問は次の機会にゆずることにした。さて法泉寺を辞去して、嗚門の海岸近くにあると伝えられる、新浜裟幸氏の記念碑を参打することにした。古(写真参照)また、このお寺の住(浄刹というのは清らかな寺の意)また、序「西方寺僧絣誌」とある(鳴門② ② ③ ~.~ ~ 疇こゞ--~-. `•, 10 (写真)①③ 大谷焼の古い窯あとわかめを干す嗚門海峡の難破船④と⑤淡路島の水仙郷.,.. -・ヽ`,:

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