テキスト1975
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現在、徳島市には小原変里氏、開島町を中心として武田慶園、古林艇泉、石原慶仙、清水脱園、益出巖道、石川美千代、浜崎光子、川真田多恵子、志麻節子の教授諸氏、上板町の河野疫保、板東慶和氏。鳴門市の石田慶園氏は小原先生の高弟であってこの地方の先賄で現在も盛んに門弟指迎にあたっておられる。また流の古老として鳴門市の蔵根疫栄氏も八十四オで健在である。以上の人達を中心として今日の阿波における桑原専慶流が伝えられ訛られているのだが、さて、同地方は前にのべたように古い時代から桑原専股流花追との因縁浅からぬ土地のことでもあり、また同地方文化の一っとして花道の立脚点を考え、また地史の中にある桑原の花道を調査するため、私はその日の午後、鳴門市役所の市史編簗局を訪れた。私がはじめて鳴門市を訪れたのは二寸オの頃だった。ただひとり心細い思いで撫捉(その頃は板野郡撫養町だった)の浩に許いた。寒々とした板をならべた桟栢に十名ばかりの船客といっしょに船をおりたが、それを待ちかまえた様に旅客の釉をひく女達が五、ハ人、港の前には小さい遊女町があった。それを抜けると視界が急に明るくなり、街道にそうた塩田がひろびろとして連なっていた。まもなく山裾に明神の家並が見えてきたのだった。小嗚門の川の様に見える悔峡を、可0トンほどの汽船が流されるままにエンジンをとめて、ななめに船体を傾けながら、やっと撫掟についたのはまことに印象的だっだ。大阪天保山からここまで約六時間の船の旅だったが、江戸時代に花を教えるためにこの浪路を渡った父祖の旅を、一廠深く考えさせられたものだった。さて、今日の鳴門市は活力に凶ちた近代都市をうかがわせる新しい嗚門市である。やがて鳴門架栢が実現した場合の発展はすばらしいものがあるだろう。私は鉄筋建築の堂々とした唄門市役所を訪れたのだが、さっそく別館にある市丈編簗屈へ案内され、私の訪間の目的をのべたのだった。実に幸せなことには、現在、嗚門巾において市史の編纂のため、すでに出版の段階であったのだった。その中に嗚門市の花道について、数々の疑関もあり、資料を集められているその段附に私が出向いた状態だった。まことに偶然の機会であり、私にとっても益するところが多かったのである。細纂事務局長の小比一夫氏、市議会議員富田耕作氏、地史研究家岩村武勇氏などと共に膝を交えて懇談したが、私の持参した家元伝書のうち阿波に関係ある資料をお見せし、またに保存されている花氾閲係の探料や、伝説などを中心に話しあったのだった。TIJ.役鳴門海岸にある記念碑鳴門市真宗法泉寺門標i口回所,

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