テキスト1975
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,'\ 宇野から高松への連絡船に乗ったのは2月12日だった。あたたかい陽ざしがいっばいにひろがった長閑な海だったが、早春の風はまだ冷え冷えとしてひとしお肌寒さを感じるのだった。私の今度の旅行は鳴門市に伝えられている桑原専貶流の花道の歴史と伝統の解明などを、地史文献などによって調査すること、またこの流儀にしたしみ、この流像のいけばなを伝えてくれた人達の、人脈とでもいえる伝統のあとを調べることであった。古い時代には阿波の人達が京都へ来て、桑原専脳の立花を翌ったと伝統のあとをたずねて→ いう文献も残存しているし、また私の知る限りにおいて先々代の時代から先代の明治、大正へかけては、京都から徳島嗚門地方へ出向いて、花を教えた記録もあって、阿波徳島との交流は中々深いものだった、と聞いているし、また私の子供のころからその状態を見知っている。という本がある。美濃紙木版刷一冊の古告だが、江戸末期の党政年間に出版されたもので、その薔物の序に次の様な文章がある。桑原専脳流の伝書に「立花錦木」「立花錦木」序専渓(文と写真)夫立花は風流中の風流なるものゆえ、風流者これをもてあそぶ。それ風流たるゆえんは、野沢山渓の勝景を小床にちじめ、瓶上に南山の美をつくし砂鉢に西湖の風色をうつし、いたらずして千里の景色を見るゆえに、古へより今に至るまで花道ますます盛んにして、人こぞりてこれをもてあそぶ。ここに我が法泉浄刹の現住一倫師は、わかかりしより斯道に心をふかめ、よりより花道の諸家に遊びてその説をきく、かつ業の巧拙を見る。仙菊美をあらそうの中に、こころ桑原家にあり、終に門に入りて多立花綿木跛.`茂杖之免追不遍夏日一也淵咀免教不過秋日一也允阜冬花晦猜商式上直玖棲珠閣示圭遅宝弟屋燦‘唯自得冬餘而巳雖恣孤花団以,糾艶畏庁雲団以寛政丙辰秋阿瑞嗚門脇立孔考則弗叔是無途無夏無淑無不奇獄ら:枝芳弗灘必吾二'倫上也梵而不奉鶉比繹宝弥便茄心五戸是惑,心懇諷亦し来汎則此綸机可以経上人爽亦幾乎困亦,悦平卒乃諭嘗世忍編此再,士其ノ汽文然爛然以昏悠f焉逗是桑原一'漉之正遺玉入年の巧を成る。近を好むとは云えども、実に師家によらずしてみだりにこれをもてあそぶ。少しく花形のなるに於ては自ら得たりと思いて、いよいよその真を乱る。これ教諭にあずからざるの罪なり。又、貧しきなるは費え多からん事をおそれて師家に至ることあたわず。倫公これを歎くこと年あり、終に一少巻を作りて諭惑編(ゆわくへん)と号す。これ世人のまどいをさとさんとなり。また錦木(にしきぎ)と題す。その心、花道に志すものをして師家になかだちせしめんとなり。l9ー人汽萬於苓花_而不留意於立花[-景丘堅百ー舟勝広箋天地、現迄ー室困ttt風流者ただ花嗚呼、倫公の姿心あに嘆息せざらんや。因て不敏をかえりみず、ここに梗概を記するものなり。阿似閉西方寺僧絣誌以上が「立花錦木」の序文で阿波の西方寺の僧、絣誌すとあるが、その時代の花道の在り方や、桑原家との師弟閲係について述べられている。またこの本の最後に阿波嗚門脇に住む「江雲亭亀翅」という人が、あとがきを書いている。(写真掲載)亀翅というのはそのころ同地方に住んだ俳人で、花逆にも深く心を寄せた文人風雅を愛する人であったといい伝えられている。伝雲亭追翅琺5il8 口鳴門ヘの旅野山千患〔立花錦木〕の奥祖阿彼人形の木隅(寛政3年)

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