テキスト1975
32/147

ある。Rまんさくと白椿の大作盛花。まんさくは二月はじめに渋い黄色の花が咲く山木である。秋になるとまるい葉が朱赤に紅菜して美しい。花のつぼみの頃も咲く頃も、豊かな緑の葉のある初夏の頃も、十一月頃の紅葉も一年を通じていけばな材料として風雅な趣を見せる好ましい材料で二月はじめの洪い黄花はなんとなく落許があって山村の風雅を感じさせる。木振りにも変化があり草花と取合せても調和のよい材料である。この大作盛花は白椿(ほんあみ)の古さびた枝とまんさくの枝との木もの二種の盛花であって、椿の枝の空間の枝の見えるところに変化がある。えてみる。いけばなでは足もとの美しさ、ということが―つの条件になっている。みずぎわというのは花瓶の口もとからいけばなの足もとのところ「水のきわ」という意味なのだが、伝統の生花では足もとを―つに作って、それが美しい技術で仕上げられていることが大切ということになっており、また瓶花盛花では花瓶の上端と花形の下葉の屯なり、ある場合には足もとをすかせて、すきあいの美しさを見るという場合もあり、花器の水と花材の足もとの美しい技巧を考えることもある。いずれにしても、みずぎわの美しさ、切な条件となっているのだが、段々と高度のいけばな作品になると、このみずぎわの工夫ということが、その作品の重要な部分となってくることもあり、みずぎわという古い言葉を離れて、いけばな造形の新しい工夫がここにある、という様に発展することにもなる。庭の樹木の足もと、盆栽の土から立ち上る株もとの部分、もちろん高級なものの話だが、あの苔(こけ)から立ち上った根幹の部分は実に美しい。白砂や胄苔と調「みずぎわ」の技巧について考ということがいけばなの大和する静けさは、仝く日本のこころを象徴しているものといえる。山野に出生する並木の姿をいけばなにとり入れ、また庭や盆栽の技法をいけばなにとり入れることは、古い花道から今日の新しいいけばなにも行なわれているのであって、また反対にいけばなの形式を盆栽に利用されていることもあって(盆栽に立花式というのがある)花氾を志す人達はこんなところにも注意したいと思う。盆栽の寮せ植え、筏(いかだ)作りなど、みずぎわ立った技巧の美しさがあると思う。洋花の鉢ものには土の美しさがない。花は華罷だが株もとの美しさは悠じられない。鉢をおおいかくすような下菓と花のきれいさはあっても、株もとという、日本の自然銀とは性格が迩う様である。夏季のころ、辿、こうほねの様な水草が水から立ち登った茎の美しさ、水と水草の美しさはこの水ぎわの自然観にあると思う。緑の苔の中から立ち登るヤプコウジ、シュンランの情緒は短い株もとの美しさ、やさしさ、そこに自然にある詩趣を感じるのである。花を活けるとき常に花器の水が清らかであること、ことに水盤の場合はみずぎわの清潔さを大切に考えるのは、この自然をうつしとる心から発展してきたのである。4 足もとR 白椿まんさく盛花としてかなり大きい

元のページ  ../index.html#32

このブックを見る