テキスト1975
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この写真は桑原冨春軒の階段である。これは「棚階段」といって、あった階段で、た古い形式で、現在、京都では数か所あるその一れており、時々、雑誌などに掲載されている。江戸時代の民家に戸棚を応用しっといわ専渓ものを習うのは階段をのぼるのと同じように、一段一段と安定した速度と、しっかり踏みしめ踏みしめ登る周到さが必要である。習う人逹の差辿によって進歩の状況が異るのは当然だが、いちばん理想的なのは安定した速度で除々と順序正しく進行するのが最も好ましい。階段もいろいろある。家庭の階段は大体において似たりよったりで、大したこともないが、山登りの途中にある石段、見上げるような山上にそびえている寺院の石段、これは相当健脚な人でも途中で休憩しなくては息がつづかない。5階10階の建築にはエスカレーターやエレベーターがあって、至って楽なのだが、3階4階のヒルには階段の途中に平場の休み場があってここで一と息入れるようになっている。いけばなの柄古でも―つの段階を越え、また次の段階に進む。落恙いた速度で正しい歩調をとって、休みなく益って行くのが理想の形である。それがためにはよい附段でないと登りにくい。安全な階段、間迩いなく上へ登りつくことの出来る誤りない逍を段々と登って行く。誰よりも早く登ろうとあせってはならない。人の体力にはいろいろ差迩がある。いけばなを習うにも習う人によっての理解の速度、技術の上昇には差迩がある。しかし、多くの例によると、たゆむことなく平均速度で進行する人達は、最後に必ず最上段階に達し得ることになる。これは学校教育と同じである。知識の進歩によって教育課程が上昇して行くのと同じである。一瓶の花を活ける場合、早く仕上げようとあせるのは、結局活け方が粗雑になり、計算を誤ることになり、やりなおすことにもなって反対に活け上げがおくれることになる。―つの花を活けつつ、中途で休むのはよいことである。五分問でも休んで考え方を転換し、り組んで行く。階段の休み場と同じということになる。京都には寺院が多く高い山の上に建てられた多くの寺がある。東山知恩院の奥にある一心院、嵯峨の二郎院の廟所、北山の鞍馬寺、遠く岡山県連島町の箆取(へらとり)神社、香川県琴平の金比羅宮、いずれも高い山上にある寺と神社である。幾百の石段を登りながら、休み休みしながら行く。途中でいくたびも休みながら、そのたびごとに登ってきたはるかの出発点をながめる。私達がものを習いはじめた時点をふりかえるのと同じ気持である。私達が―つの目標をめざして登りながら、時々、習いはじめた時のことをふりかえることがあるだろう。そのはじめの幼稚さと、現在の未知の境地をさらに理解しようと望む今の段階とは、実際において程度にいちじるしい差があることは当然だが、いつまでもいつまでも最終ということのないのは、学問芸術のあらゆる分野において同じといえる。その人の知識の高さ技能の高さというものは、一般の人から見れば尊敬し得る程度であっても、その本人にとっては、十年以前も今日も同じ様に思えるのは真実である。なにごとにもあれ‘―つの道を究めるということは中々大変なことである。新しい心でと階段(桑原富春軒の階段)12

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