テキスト1974
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教える人の立場を考えてみる。教える人は生徒の花に対する理解と知識について教育すると同時に、いけばなの技法について‘―つの花を活けるたびごとに、その花形の研究とよい花を作るにはどんな方法をもってするかについて細微にわたって教える。そして生徒達が段々と上逹し、いけばなの考え方について理解が深まるにつれて、さらに高度の研Rすすき究について指祁して行く。花道家の仕事は以上の様に教えるというのが一般的だが、実際はこれに終るものではなく、さらに発展して高度の研究の中へ入って行く。花道家の仕事の範曲は随分ひろいものである。普通は盛花瓶花だけでその仕事のすべてという場合もあるのだが、また.伝統の生花や伝統の立花を作る人もあり、同時に新しいひまわりモダンアートのいけばなを作る人、また花道の知識と技術によって、創作的な造形にとり組む人もある。考えてみれば花追家というものは一種の装飾美術家である。そして伝統的な仕事も新しい仕事も一人の花道家が考え作るというところに特殊性がある。また、作品の材料を考えても、自然山木野草から園芸植物まで、外国胎の植物など素材の個性あるものを、作品の中に使ってその複合調和によって、新しい別個の造形作品を作ることになる。ことにいけばな展という特殊な場所がある。絵画彫刻などの場合は、作られた作品を会場に出品するのだが、いけばなの場合は作られた作品を会場に持ち込むことは少なく、会場の広さに合せて作品の大きさを定め、その場合のふんい気に合せて、短時間(生けこみ時間)に作品の形さえ変えてしまう、といった場合がある。これは出品ではなく会場芸術として特殊な美術を作り上げることである。全く舞台美術的な特殊な立場が考えられる場合もある。しかも、常に時間に制約されて仕事をすることになる。常に二時間三時間程度の短い時間内に責任のある作品を作りあげるということは、永年の鍛練と技術の結集が、短かい時間に優れた作品を作り上げることになるのであって、生けこみの短時間の背後には幾十年という基盤がある、ということである。さて、私達の仕事は複雑であるが、それを作るのは一人の花道家である。一人であることはその花道家のもっている個性と特徴のある考え方や、そのいけばな作品から特種な味わいが感じられ、見る人達に興味と感動を与えることになる。これはその作品のもつ力であり、その作家の力塁である。他人の優れたいけばな作品をみて模倣する花道家がある。自分の技術に自信のない人、自分というものを造るまで、人格的にも技術的にも乏しく、表面的に自分をよく見せようとする様な信念のない人は、常に作品がばらばらであり底が浅く目標がはっきりしていない。永年の鍛練によって作り上げられた技術と、深い研究態度によってこそ礎きあげられる境地であるから、必要な時だけ体裁よく通り抜けようとする様な考え方は、いつまでも真実が掴めないものである。習う人達はそんな厳しいことを考えなくともよい。習うという言葉は先即なり指迎者の優れたところを見習うことであり、そのすじみちを正しくたどりながら、やがて立派な技術を見につけることであり、美術としてのいけばなの真実を理解することになる。そして花道家の立場になったとき、新しい努力が要求されることになる。6 いけばなの特殊性

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