テキスト1974
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専渓みちのくの旅を思い立ったのは七月中旬をすぎた頃だった。空の便はすでに駄目だし、国鉄の東北線も切符が手に入らないというのを、とにかくなんとかして青森駅に降り立ったのは八月五日の正午をすぎた頃だった。十年ほど以前の九月に中蒻寺から十和田湖を廻って青森へ入ったことがあったが、久々で見る青森の町は近代建築の立ちならんだ堂々とした風景だった。とにかく旅装をといて、この日の夜にある「ねぷた祭」を見ようという計画である。幸いにここ数日は晴天がつづいて、八月の午後5時はまだ明るい時間だったが、旅館を出て祭の中心と思われる青森市役所の前の特設観覧席へ行った頃は、まだ閑散としてお祭り気分など、どこにも見られない状態だった。やがて町の様子もざわめいてきて東京、大阪、九州地方のナンバーをつけた観光バスが続々として入ってくる頃になると大通りに集る人達も段々と多くなって、それが幾雇にも重なって町の両側は壮大な群衆の集りとなり、その中に花傘をかむり祭衣裳をつけた娘達や若い男衆が、ある地点へ集合するらしく百メーターもある市庁舎前のメーンストリートを幾組も通りすぎて行くざわめいた景色になってきた。やがて、観衆のどよめきが起り一方の町の方から、これは想像を超えた巨大な造形物がそのすばらしく大きな体内に照明を入れて、段々と移動してくる。いよいよ「ねぶた祭」のはじまりである。私達の京都では祭というと、神社の祭礼と思うのが常識となっており、全国的に有名な祇園祭でさえ神をたたえる奉納の精神があって、ほとんど神社に籟をおかない祭はない、と考えるのが常識になっているのだが、はじめてみる「ねぷた祭」からは宗教的な感じが全くなく、これは民衆の喜びを表現した壮大なショウであった。全く「阿波踊」に類する全市を挙げてのリクレーションであることがわかってきた。掲載の写真でみるように、この巨大な山車(だし)が十台、十冗台と間煕をあけて目の前を進行して行く。その「ねぶた」をとりまく数万と思える踊りの衆が、一台のねぶたをとり巻いて踊りながら進行して行く。大太鼓の列がその間に横列を作って、どーんどーんと音をたてて踊るもの見るものその大群衆の心を盛り上げて行く効果は実に見事である。市役所職員の「ねぶた」と聴員達の踊り、自衛隊の「ねぶた」と踊り、商工会議所、大会社の「ねぶた」と、公の団体も民間の団体も―えあがる熱気の中に日本の代表的な民衆の祭を盛り上げている。アラッセーラー、セラッセーラーと、踊りの大合唱にあわせて柔軟なテンボの踊りの列かいつまでもいつまでもつづいて行く。この壮大な「ねぶた祭」は、はじめて見る私の心を魅了してやまないものであった。つになって、燃アラッセーラー、アラッセラッ7 この巨大なつくりものが十五台もつづくこれが「ねぶた」である青森の「ねぶた祭」東北三大祭を観る

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