テキスト1974
112/147

毎月のテキストを作りながら、ときどき思い出すように考えるのは、テキストの作品写真に瓶花や盛花が意外に少ないことである。テキストの写真を作るとき、木の材料をつとめて活けようと思うのだが、さて、作品にとりかかると、やはり草花が多くなってしまう。皆さんも気がついているだろうけれど、これはなにによるものかと、反省しているのだか、それにはそれの理由もあるので、作者としての私の気持を述べてみたい。木ものの材料といっても種類が多い。松、桜、椿、杉、木迎のようなほくがかった太いものから、雪柳、つつじ、さんきらい、沈丁花、カラタチ、コデマリの様なかんぽく類まで、私達のいけばなでは大ざっばに「木もの」と呼びならわしているのだが、そのうち以上にのべた様な太い木の材料の作品が意外に少ない。これも季節により冬から春へかけては花木の種類を多く活けることになり、初夏から秋へかけては草花の多いのは当然としても、太い木ものの瓶花盛花の少ないことについて、ただ意味なく片よらせているのでないことをお話したいのである。専渓なお、初級者のページが比較的少ない。テキストとして必要なことであるから、特設のページを作るようにしようと考えている。私は常に考えるのだが、桑原専殷のいけばなは、どの作品においても「木もの」の気品が高くありたい、流麗な形でありたい、美しい色彩のある花でありたい、また明るく新鮮な感じをもついけばなでありたい、こんなに考えてくると、それはどこからどんな考え方で作り得るのか、あらわし得るのかということを、しみじみと考え、さらに皆さんにまでそれを浸透せしめることが出来るかということについて、常々責任を感じているのである。そんな意味において、なるべく以上の目標にあうような花材を選び、花器を選ぶ様に注意しているのだか、さて、私の考えるところ「木の太い材料」は、たとえそれが古さびた老木の雅致のある材料であっても、いけばなの技術によっては逆に平凡になりやすく、「枝振りがよければ」という泌じになりやすいし、古雅なぽくものの瓶花盛花は、素材の感じとは逆に品格の低いいけばなになりやすい傾向にある、と考えるのである。太い「ほくもの」に椿や菊、その他の木の花草花の副材をつけた瓶花盛花は一般的には言えないにしても、ともすれば古雅ないわゆる「文人調」の瓶花盛花になりやすく、特にこの点を注意する技術と思屈のある人でも、これに陥りやすい傾向にあるといえる。古雅な文人調が悪いというのではないが、今日の新しい感じのいけばなを志す人達にとっては、今日的な明快新鮮な作品を作ることを心がけるのが望ましいと思うのである。桜もよい梅も楓もよいが、なるべくボクがかったものを避けるのがよい、と考えるのである。軽やかな枝振りの松、杉、梅、桜、木蓮などのほうが好ましい、という気持である。それにくらべると雷柳、コデマリ、サンキライのような「かんほく類」は草花との調和もよく、明る<品格のある材料といえるのだが、以上の話は一般的のお話で、いけばなを飾る場所(花展の様な)によって目的が変るので、考え方が変るのは当然である。このごろのいけばな材料は品質がよくなり、栽培種の草花も日持ちのよいものが多い。木の材料よりも草花の方が美しく日持ちがよい、という場合も中々多い。木ものはながもちするという考え方も訂正する必要があると思うのである。テキストに基本形の写真や解説が比較的少ないが、これは別に発行されている「いけばなの四季」に充分解説してあることでもあり、少ない。ヘージに裏複の写真原稿をのせるよりも、研究的な作品に重点をおいているというわけである。ふとい木もの.... 12

元のページ  ../index.html#112

このブックを見る