テキスト1973
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私達のいけばなは、ただ美しくさえあればよい、というだけではない。その中に花のもつ情紹、それが望ましいのである。春夏秋冬のうつりかわりによって、自然の植物が姿をかえてゆくそのすがた情緒、その中に自然の美しさと詩情をくみとって、いけばなの中にあらわそうとする、そんな考え方をもっているのが私達のいけばなである。したがって、外見の美しい花だけを宜美するのではなくて、花の咲く以前の若芽の清新さや、花期を終わって実を結ぶころの形の面白さ、秋の木の葉の色づく美しさ、冬の落莫とした枯れ葉さえも、一枚の枯れ葉を拾っていけばなを作る。その心が日本のいけばなの真実の姿である。例えば、寒菊は黄色の開花をみるよりも堅いつぼみの季節に、葉の紅葉を買美するのが習伯のようになっているのだが、開花よりも葉の紅葉に季節感と風雅な情趣を楽しむ、ということは日本的な花の見方といえるだろう。また、早春のころ凍土を破って頭をあげるふきのとうを花瓶に入れたり、芦の若芽を水盤に飼ったり、初実もののいけばな夏のころ青楓を一枝、かけはなに入れたりするこころは、それを見て美しく感じるよりも、季節のあこがれを花によって表現しようとする、心の中の詩梢ともいえるものである。これと同じように、木の実や草の実をいけばなの材料に使うことが多いのだが、これらの実の材料は一般的に考える花の美しさというのとは少し意味が迩うと思う。外見的には自然のうるおいと、面白い形をもっているけれど、それが美しいと感じるのは、その風雅というもち味である。そして、この自然趣味は季節感と自然美との調和によって、いけばなの中に「実もののいけばな」という特殊な瓶花、盛花を作ることになるのである。いけばなの中に「奇なる姿」「頸々たる面白さ」といった姿を作るのには実ものの材料がいちばん適している。「俳趣」という言葉がある。俳趣とは「俳諧趣味」はいかいしゅみ、のことであって、俳諧とは滑稽味をおびた和歌のようなものであり実ものの瓶花の中には、この俳諧趣味に通じるような奇なる姿を面白しとする行き方があって、材料の趣味からいっても、こんな感じを出すことのできる材料である。風雅な自然趣味と、面白い味わいをもつ実ものの瓶花、こんな特徴のある花を作りたいと思うのである。Rきりの木の実は渋い緑色に褐色を帯びた大きい実が房状につく。美しい実ではないが野趣の味わいがある。別にあおぎり(梧桐)、いいぎり(椅)など同じく桐の種類だが、あおぎりは褐R桐の実ダリア色の豆状の小さい実がつき、いけばな材料にもよく用いられる。いいぎりは赤く南天の実に似た虎状の実がつく。桐の葉は水揚が悪いので、ほとんど取り去り、実をみせる様にして活けた。4 ..... 奮

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