テキスト1973
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べにひがんざくら専渓そのころ、殊屋町の私の家の裂庭に桜の木を一本、植木屋にたのんで植えてもらった。戦争も末期のころにはこの桜の木もしっかり成長して、幹まわりも太くなり三月の末から四月へかけて、淡紅の花がいっぱい群がって咲き、花のころには花のよく見える位叩いに竹床几(しょうぎ)を協いて腰をおろしながら、自分の家で桜見をするぜいたくをしたものだった。京都園芸倶楽部に会員の籍があったので、園芸家にも友人が多く、ちょうどよい樹があるから植えてあげようといって、枝をはらったかなり大きい樹を裂庭の土蔵の前の空地へ植えてくれたのだが、それか昭和ら三年目に隆々として枝がひろがり花をつけるようになった。紅彼岸ざくらという品種で、花は小さいけれど三月の末に花が色づき、餅米の「おこわ」のような紅色の化が段々とうす紅にひろがって、やがてまっ白になるほどいっぱいになって咲く。花のころには、そのころすでに乏しくなったたべものを、なんとか工夫して、この桜の花の下でひっそりとした花見をたのしんだものだったが、段々、戦争もあやしくなるころには、長く家に居ついた猫のほうじょう(猫の名)も、いつのまにやらどこかへ逃け出してしまい、あの猫も戦況を予知して疎聞したのだろうと話しあっている間に、強制疎間の命令がきて、三日間で家を破壊されるという大変なこととなった,前年の及、桜に虫がついて樹勢が悪くなったので、米年の朴は例年のように花見も出米ないだろう、などと話しあっているうちに、その平節も来ないうちに、桜の樹も引き抜かれるような辿命となったのは実に意外だった。その三年ほど前の朴のことだた。京都南座に凶我の家五郎劇団の臼閲が叫演されていたときのことだった。このを舞合にかけることになり、この劇団のお笑いから少し離れた創作的な20年2Jj、いよいよ私の家にも一座が「了利休」の戯曲tこ。 二階のいけばな教場がかなり広くものだったが、その次の舞合の千利休の稔古をやりつつあった時と思えるのだが、この芝居の中に、利休の娘が利休に命じられて水盤に桜を活けるという、その場面の油出について私が相談をうけたことがあった。日切、いろいろな舞台に興味をもっていた私のことであり、とにかく俳優の方が揃って私の家へいらっしゃい、花の活け方ぐらいは教えましょうということになって、その一座の万郎附長をはじめ、五郎八、秀蝶などという俳俊の先牛ガが七、八人揃って私の家へやってきたのだ四十帖ばかりあったので、とにかく之店の場面を見せてもらわんことには、という私の注文で、仕方がないやろうじゃないかと、一同笑いながら、利休の娘が水盤に化を活ける場而の一部をやってもらった。ちょうど、翠虹の桜の花が満閲だったころだったので、手頃の枝を切りとって、花留のない水面に花をしご登洛して、落花の風桔をみせるその型を、私が実演して見てもらったことがあったが、この桜がなにかの役に立ったのは、これ一度ぎりだったと思っ。いけばなの材料として切りとったこともなく、やがて根もとから引き抜かれることになったのは、わびしい限りであった。私の家に咲いた思い出の桜であった。っっ紅彼岸桜.... 「桜をj舌ける会」作品写庄図3 (花の名二楷咲)12

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