テキスト1973
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京都の市街地をはなれて、龍安寺おむろ仁和寺、この辺までくると樹木にも新鮮な光沢と彩暦が感じられ、京都らしいほっとした安らぎをうける。アスファルトの坦々とした道の両側には竹薮がつづいて、この道は広沢池から嵯峨ヘ通じる道である。京都の風景を代表するような美しいこの辺一111市に、桜の蒐集家として有名な佐野藤右衛門氏の庭園がある。大東亜戦争も末期の昭和十七年の春であった。桜の花をいろいろあつめて趣味的ないけばな会を催したことがあった。桜というと一般的に考えられる花だが、さて専門的研究的に考えてみると桜には多くの品種があり、それを知ることさえも大変であるのに、とにかく各種の桜を切って花に活けるということが、どんなにむずかしいことであるかということが、段々とわかってくると、これはいいやすくして簡単なことでないと思をるようになった。日頃、知遇を得ている植物研究家の浅井敬太郎氏に相談をしてみると、それでは佐野藤右衛門氏に紹介しましょう、ということになって、まもなく佐野藤右衛門氏を訪問して意のあるところを諒解してもらったのだが、ちょうど四月の下旬の季節でおそ咲きの稀種の桜を二十数種、切ってもらったときは全くほっとしたのだっ貧弱な私の知識ではどうにもならないので、fこ よ。うやく、かねての紺願であった「桜のいけばな会」をひらくことになったのだが、このころは戦争の状態もむずかしくなりかけた頃で、いけばな会など一般的には好意をもたれなかった時節でもあったので、とにかく、研究的ないけばな会ということにして、会場は当時、妹屋町御池にあった私の家で催すこととし、出品は桜のいけばなばかり約三十作。桑原専沢の個展として催すことにした。妹屋町の私の家は京都市の中心部にあり、付近は柊家、俵家など著名な旅館が軒をならべている、その隣りあわせに桑原富春軒という大きな門標がかけてあったが、京都の中心地には珍らしく広い土地と犀敷があって、古い家だが静かなたたずまいをもつ家だった。やがて昭和二十年の布にこの家も強制疎開をうけて瞬間にして破壊され、今は御池通の一部になっているのだが、にはまだまだそれだけの余裕が一般的にあったのだった。桜を活けて鑑賞するというこの会は、これまで行なわれたこともないし、実際、高度の趣味の会として、風雅な催しとして全くすばらしいものだったと思っている。階上階下の広間に屏風を立てならべ青色の毛距をしいて、大小の作品三十点を陳列した。私の家の催しでもあり、時節がら流内の人達や趣味の知人をご招待しただけであって、それでも二日間に一、ほどの来賓を迎えて、皆さんとともに楽しむことが出来たが、全く、戦時中に珍しい静かなひとときであった。また、私にとってはことに勉強になった意義深い企画だったと思い返している。「桜のいけばな会」を催した昭和十七年000人寮衿書棚からみつけた古い桜の画(画)専渓「桜を活ける会」作品写生図(花の名千島)10

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