テキスト1973
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昭和10年前後のころだったと思う。京都の五条坂に西川清翠という陶器師があった。そのころ30オ程度の人だったが、一風かわった男で、五条近辺や東山泉涌寺あたりの窯場で陶器職人の様な仕事をしていたが、この人は恵まれない生活をしていた中に、自分の作品は作品として野心的な陶器、それも花器が多かったが、ときどき作品を十数個ほど持ってきて金にかえる、というあわただしい生活をつづけていた。「私の家は九条橋の下にある五軒長屋で、家の前には疏水の川が流れているし、その向うは奈良線の汽車の線路、すぐ後は京阪電車が走っていますから、自殺するのには至って便利なところで||」と笑っていたのを思いだすのだが、いつも窯の岬にくすんだような頻をして、頑はざんばらがみの蓬髪で物慾をはなれたような善人だった。ところが、この西川氏の陶器の作品はすばらしいものだった。ことに焼成技術も大したもので、青姿、鉄砂、焼しめ、染附、紅彩の花瓶、黄専渓色釉など、あらゆる種類の釉薬を使って、変化のある花器を作ってくれた。ことに、その形の工夫が大したもので、普通の陶芸家では思いもつかないような変わった造形花瓶を作りつづけたのであった。それぞれの作品が、陶器として優れており、形は自分が考えついたものを、すぐ作品にあらわすというやり方で、品位もあり、一個一個が独立した芸術性のあるものであった。いわゆる不世出の芸術家とも考えられる人だったが、そのころ京都の陶芸家の仲間では異端者のように扱われ、西川氏の努力は完全に認められなかった。わずかに私とその他二三の花道家が、この人の作品を愛好して後援者の立場にあったのみだった。今から考えると、この人のように常に創作に打ちこむという様な陶芸家は全く珍しく、前後を通じて西川氏のような熱梢をもつ陶芸家に出あったことはない。現在も、私の家に清翠作の花器がたくさん残っているが、今にfっても新鮮な感じに見られる作品どもである。西川氏は京都の陶芸界に恵まれず、やがて岡山県伊部町の備前焼の窯場へ逃避するように姿を消したが、その後、10年ほど経過して珍らしくも伊部町の陶器師西川清翠として、作品を何十個か送りつけてきた。その作品はすべて大小の花器だったが、それをとり出してみると、相変わらず創作的な野心に満ちた作品であった。ことに面白いのは備前焼特有の褐色の土を素材として、いんべの釉薬と窯がわりの焼成の調子に仕上げてあるのだが、は京都陶器の形式の上に、西川氏一流の野心的な創作による新しい考案のものばかりだった。恐らく、京都の窯場で恵まれなかった西川氏は備前でも、うつうつとした生活を送っていたものであろう。その後、この人からなんの便りもない。備前町から送ってきた花器の金もとりに米ない。どこに生活しているやら住所居所もわからない。音信を絶って二十数年を経ているからすでに亡くなったのかも知れない、と思っている。まことに、晩秋のさむざむとした冷雨のようなわびしい人だった。私は思うのだが、今、西川清翠のような陶芸家が京都に健在していたならば、京都のいけばなのために大変な協力をしてもらうことが出来たのにと、わがことのように残念に思うのである。永い年月の間にはいろいろな人に出あうものである。その中に永い年月の後までも胸底に残り、西寸敬の念をつづけ待るような友人は、中々得られないものである。tこ 電。話がかかってくると、私が花を大正のはじめごろの話である。そのころ、西園寺公望公の別邸が京都市関田町にあった。政治家としても偉大な人であったが、国家の元勲として日本の進路を左右する重要な立形そのもの場にある人であった。興津の座漁荘におられることもあり、秋の京都を愛されて関田町の別邸へ入られることもたびたびあった。生活の中に風雅を愛する人であり、ことに花を愛する人でもあった。そのころ、十七、八オの年令だった私がこの関田町のお邸へ行って座敷のいけばなを活けたことが度々だったが、おつきのお相手役にお花さんという、これもそのころ新聞紙上でも度々紹介された有名な奥女中があった。西園寺公のお花さんというと、一般だれしらぬものはないほど、婦人の中の特殊な存在であっ活けに行くのだが、花屋がお台所までいろいろな花を持参してくる頃に、私もお邪へ行ってその日に活ける花をきめることになる。そのときに老公爵が台所までこられて花を選択される、お花さんが「御前様、これにいたしましょうか、これがよろしゅうございますか」といって相談相手になる。公爵もしずかな言葉で、「この方が趣味がよいだろう」など選択されて花がきまることになる。お花さんというのはそのころ三十万、六オの感じのやわらかな、さすが公爵のお気に入りの賢婦人だった様に記樟している。とにかく私も私なりの言築で花材をきめることになり、その後はお花さんと打合わせて座敷のいくつかに賄花を活けた。年若い私だからなんとなく言葉をかけられたのであろう。その時代の内閣首相は西園寺公の奏煎によってきまる、というほどの国家元老であるから、普通には中々お話することの出来なかった権力者だった。また同じころ、私の流儀に三谷梅子という老婦人があった。京都梨木神社宮司の野村敷明氏の姉にあたられる人で、すでに七十オほどの老婦人だったが、私の父に花を羽い師範の資格であった。京都広小路の久適宮家に奉仕してこの流儀のいけばなを教えておられた。その関係もあって私もときどき宮家に参って花を活けたが、あるとき、陶器の清水六和氏とごいっしょに伺って、いろいろ陶器やいけばなのお話をしたことがあった。私の二十下、六オ。ころだったとおもうのだが、太妃殿下といわれた宮様のお祖母さまの前へ出たときは、全く恐縮したものだったが、恨の中が変わってしまえば、すべて夢の中のひとこまの様に思えるのである。記憶の中の人12

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