テキスト1973
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随想専渓俗臭京都の郊外には竹薮が多い。東山も南のすそ、深草から山科へかけて。西山に低く裾野をひいて、嵯峨から阿日町、山崎へやや黄ばんだ緑の丘のみえるのは、竹むらの群落である。きのう深草のさる知人から持ち山のまだけを一本もらった。10センチ程度のふとさの竹だが、早辿、のこぎりを使って手ごろの寸法に切り花器を作った。ちょうど花屋からとどけてきたアンスリュームの朱色の花青竹の味1本、葉1枚を軽い気持で挿す。新鮮な竹の緑に朱色の花がよく調和してすがすがしい感じである。小型のアンスリュームの花がしずかな味わいをみせて単純であるが飾り気のないところが気持ちよい。竹の味わいは薮から切りとって冷えびえとした手ざわりのある竹の葉を切りとる、そんな気持の中にあると思っ。手入れされた竹の花器も美しいが、なによりもまして新しい竹の少し白い色を帯びたような清浄な感党は、索朴な日本の味わいといえるだろう。最近、竹屋の青竹は油ふきをして、少しでもよく見せるように手入れをするのをみかけるが、竹は自然のままの、そのままの中にほんとうの味わいがある。冑竹の花器は意匠をつけて切り方を工夫したものよりも、切ったままのずんど切りのものがよいと思うのだが、これに椿、水仙、菊のような雅趣のある花もよく調和するし、紅菊や甚菊の紅葉など、ことに風雅である。かきつばた、ささゆり一利などいかにもすがすが汗花も意外によく調和する。フリージャ、バラ、汁闇の類、カーネーションなど色彩的にも美しい。太いもうそう竹よりも、まだけの軽やかな調子の竹筒が花を引きたてるし、少し竹の菓のついた青竹など、ことに新鮮な雅致を憾じられるものである。しし、。いろいろな職業に従事する人達を考えてみると、その仕事にしみついた人間の香りを感じるものである。医師。知的で柔らかくてよい感じの人が多い。職業化した顔と態度である。銀行家。いんぎんで人ざわりがよいが用意周到の人が多い。中等学校の先生と幼稚園の先生。まるで態度が辿う。校長先生は更に直任者らしい顔つきが地についている。婦人服屋はまず客の服装をじろじろみて客の品定めをする。植木屋は変屈の一言居士が多いし映画関係の人はベレーがお好きらしい。洋画の画学生は強いて崩れた格好をする。鶴屋、亀屋の菜子屋さんは嫌に不愛想な人が多い。さて、お花の先生方は必要以上に芸術家の顔をしたがり、その中でも前衛派の人辻は、深刻な顔をして、解った様な解らぬ作品を作る。そして古典伝統を真面目に見ようとしない人が多い。お茶の先生方は風雅の中にありながら、それらしからぬ人も見うけられる。さて、それぞれ専門の仕事にたづさわり、紺日その中に没頭すると、自然その呆味に染まるのは当然のことである。その職業臭に染まってこそ、その仕事が水準に逹しているともいえよう。職業のにおいの中には、よい香りと嫌な香りがある。他の人逹から見て、如何にもその道の達人と感じられる、信頼の出来る感じ。これと反対にその職業の一ばん嫌な感じを発散する人々。これは自ら反省して、注意したいところである。その道の高い立場にありながら、その職業臭を感ぜしめない様な人は達人である。自ら、その迎の先生先敢であることを振り廻す様な人は、その資格のない人で、批の中にはこんな人逹が多い。しっかり自己を持ちながら、常に反省し努力する人、こんな人には職業臭は感じられないものである。常に謙虚を以って人に接することが大切である。ことに女性の場合には一闇深く感じさせられる。茶道は人問形成のために大切な教育がある。茶の技法を知ることは、その目的に行くための手段であろう。いけばなは美しい趣味を養うための花である。花を活けることが下手であっても、これに依って美しい趣味を捉い、心にうるおいをもつことが出来るなれば、その目的を逹したこととなる。勿論、習うということはその万法を知り、技法を党え上達することが目的であるが、茶をたて花を活けて、楽しみながら、その中にて、やがてはそれが、美しい体臭にある優しい呑りをいつしか身につけなる様にして欲しいものである。茶をたて花を活けるときの、その人の頻は実に美しい。俗臭を解脱した心の美しさでもある。... (画と文)12 ;・

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