テキスト1973
149/149

んな風雅な花として考えられたらし,U` ‘,0 「瓶に挿すえんじ紅ばら赤のばら、見事に心のときめきおぼゆ」という歌にあるような豊かな美しいバラは、主として外国品種のバラに違いない。世界にはバラの種類が二、000種ほどあるといわれる。バラの栽培で有名なのはイギリスで、文献にあらわれたのは紀元前三00年にさかのほる。また、世界史をしらべてみると「薔薇戦争」というのがある。これはイギリスのランカスター家とヨーク家との王位争奪に開する戦争で、前者は赤バラ、後者は白バラを徽章として戦ったといわれているのだが、まことに風雅な話である。日本でも鎌倉初期の武将、梶原源太景季が、一の谷の合戦のとき、えびらに梅花を挿して戦ったという伝説があるのだが、イギリスのパラ戦争の話とその風雅さにおいて共通点があり、花を愛する武人の心がしのばれるのである。さて、新年のいけばなにバラを活けることが多い。最近は温室栽培の美しい洋花が、クリスマスから新年にかけてのいけばな材料に使われることが多いのだが、年末年始の寒冷の季節には自然に咲く花といっても、椿、水仙ぐらいで豊かな花というとすべて温室の花である。その中でもいちばん美しくて、永もちするのはバラの花であるが、クリスマスごろから切り花の値段が急に高くなり‘―つの花瓶に活けるだけでも相当なものだ。しかし、一月二月は花の日もちもよく、かなり長期間たのしむことが出来るのだから、なるペくよい花を活けるのが、結局は得ということにはなる。このごろバラとともに好ましいのは水仙であろう。バラとスイセンを合せて壷などに投げいれ挿しにするのも、簡単でよいいけばなが作れる。いけばなは活ける形よりもそれ以上、配合が肝心であるといえる。農家の庭で咲く自然咲きのバラは十二月に入ると、すっかり花季が終わって、残りの花もっぽみのまま冬枯れする。あれほど皿烹かに咲いたバラも褐色になって、シーズンを終ることになるのだが、茎と葉は寒さの中になお隆々として雅致のある姿をみせている。私達はこの残りのバラの茎を「地バラ」といって特に珍重して活ける。時として朱色の実のついたものもあり、これこそ「長春」というよび名にふさわしい風雅な姿をみることが出来る。枝と葉だけだが温室咲きの美しい花よりも雅趣があり、わずかに残った花が部屋の中で咲きはじめることもあって素朴な美しさを感じるものである。春夏秋冬のどの季節にも、それこそ数しれぬほど多くの美しい花が咲き、私達の心をなぐさめてくれる。雪のあるきびしい冬でさえ、温室咲きの豊かな美しい花を自由にみることの出来るこのごろである。花を愛する心、花をたのしむ心、これは古い昔から新しい今日の時代まで、どんな時代にも生活の中のうるおいとして、私達にうけつがれてきた習性ともいえるものだが、花は美しいものという考え方は、言葉の中にも多く使われている。たとえば「花筐」「花衣」「花暦」などという古い言葉もあり、また、秋のすすきを「花湖」といい、「花あやめ」というように、自然の植物を一層美しく印象づけるような言葉もある。「華燭」の式典をあげた女性は「花嫁」ということになり、あるいは「花妻」というように、その新鮮さと美しさを象徴する形容詞をもってよばれることになる。これも古い言葉だけれど、美しいきものを「花衣」という。これは「花見ころも」という意味でもあるのだが、またすべての美しい装いのきものをさしていう言葉であり、華やかな衣裳の絢煽とした優美さをいいあらわした言葉であろう。花を切りとって花瓶にさすのを「いけばな」という。店で壷に入れてウインドウなどに飾ってある場合はただ「切りばな」にすぎないが、ちゃんと花器に活けて部屋に飾った場合、これが「いけばな」ということになる。いけばなは「生花」と漢字で書くことが多いが、また、いていけばなと読ませることもある。古い昔からの習慣でこんな字を使うことになっているのだが、切りばなにいのちを与えるのが「生花」である、ということになり、活花というのも花を活かして花瓶にさすということになるのであろう。花瓶に挿して花を活かせる、という意味にもとることが出来る。要するに花は木にある場合、庭に春のあやめを咲いている場合はただの花であるけれど、花瓶に挿して「いけばな」に作ったときに花にいのちを与えることが出来るのだ、という昔の花道家達に都合のよい固有名詞を作ったものと老えられるのだが、さて、切って花瓶にいけた場合に実際、花は活きることになるのだろうか、と考えさせられる。「花のいのちは短くて」林芙美子の言葉は有名なものだ。と際、木の枝や、草の茎に美しく咲いにかくこれは形容詞としても、実た花を切るとき、いかにも花のいのちを切りとるような気持がして、切った以上は土にあるよりも美しく見えるように、普通、花屋のに華々しく飾ってやろう、と考えることになる。いけばなを作るとき、この花は活きているとか、これは死んでいるとか、そんな言葉を使うことがある。つまり、自然に土にあるように活けられているか、または自然に逆行し「活花」と書たような無理な活け方、枝葉の使い花を、という短い花のいのちをさら方をしているとかの、そんな技術上の区別をいう言葉だが、一本の花でもその花がせいせいとして自然にあるように活けることが必要だし、無理な挿し方をすると活々とした花の姿が感じられないことになる。いけばなはその言葉にあるように花を活かして花瓶におさめることが大切だし、花を死なせては折角の花に対して申訳ないということになる。一体、花の美しいのはこれから咲く前のつぼみのころが美しいのか、豊かに咲いた満開のころが美しいのか、というのも問題である。つぼみのころの未来を感じさせるところに希望があるようにも考えられるし、花の形や色の豊かなときがいちばん美しい、という見方もある。また、人によっては花が終わって枯れすがれた頃が面白い、という人もあるだろう。実際、私達が普通、花を楽しむのはその花のいちばん華麗なころをよし、とするのだが、木の花も草の花もやがて花季をすぎて、褐色にやつれはてた姿の中に、自然の変化がある、などと考える人達もある。まったく私達は花を見るのは美しい時期にというのが常識だが、土のある木や草の花をみると、開花が終わって面(おも)やつれた姿の季節も当然あるわけで、これも自然の植物の姿であるし、花の生れては死ぬ―つの生態であり、花の自然の姿ともいえるわけである。... 23

元のページ  ../index.html#149

このブックを見る