テキスト1973
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私たちの子供のころをふりかえると、春夏秋冬のその季節に対する生活の特微、衣服たべものその他、どうしてもその季節でないと見られないような、生活の香りがあったものである。そしてその季節のあけくれが身にしみたものだった、このごろは生活一般が暖房に入ったよう季季に、いつしか月日を送っているうちにその季節に至る、といった状態で、その点しまりのないことおびただしい。きうりやイチゴがいつでもたべられるように、花でも菊、百合、バラなど、いつがその季節やらわからなくなったし、この花はいつが本当の季節ですか、ときかれてまごつくほど自由な川の巾となった。園芸の進歩はその花の屎然とした季節感や、菊をみて秋を感じ、百合をみて夏を感じるような、そんな悼紹がなくなったといっても過言でない。まことに、あらゆる花をいつでも見られるようなこのごろだが、その中に自然の花の季節感、花によって秋冬を感じるような、そんな情紹がまだまだ多いことも事実である。もし私逹が花の季節感にあこがれをいだくのであったならば、自然でないと咲かない花、そんな種類の花を知っておくことも大切なことだろう。たとえばつばき、すいせん、なたね、かきつばた、百合、おみなえし、やまぶき、すいれん、こうぼね、はす、すすきさわぎきょう、秋海棠、紅葉、萩せんりょう、なんてん、猫やなぎ春蘭、はなしょうぶ、山花材・にしきぎ、桐の実、はしばみ白つばき以上4種の材料を大ぶりの花器に入れて盛花を作った。この作品は初冬といった憾じを心において活けたのだが、落莫とした冬の樹林の感じがよく出ていると思う。花器は古い中国の末時代の陶器で古美術品といえる程度の飯れた陶湘である。横はば六0センチ程度の大きい花器だが、雑然と活けて自然の情趣をあらわすために、このような大きい花器を使った。にしきぎの冬枯れた感じ、桐の実、はしばみの実と葉の形もさむざむとした伯紹を出していると思っ。白つばきの花の白、濃い緑の葉が渋い褐色の中に、さえざえとして災しい。のようにその季節でないと色づき花を咲かせないような日本の自然花や紅葉や実ものがある。趾宰花もよいが、自然のうつり変りによる花の情紹を忘れないようにして、華麗な栽培花のほかに、折にふれて自然にしたしむような自然花を活けて、節の情趣を味わうことも大切である。写真の花について節感13

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