テキスト1973
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いけばなの写真を作るのは中々むずかしいものである。写真の技術が俊秀であることは、当然望まれるのだが、写真が技術的によくとれている、というだけでは完全ないけばな写真にはならない。実際、目でみた感党を写真を通して理解できるよういけばな写真の演出にうつさねばならないことは当然だが、それ以前の被写体であるいけばな作品自体がどんなものであるか、ということもまず先決条件であるし、優れたいけばなであり、似れた写真であっても、それがよい写真になるかというと、決してそれだけではよいいけばな写真が作れるものではない。俊れたいけばな作品と、優れた写真技術の中間に、それをよい写真にするために、どんな浪出をするのかという―つの考えガ、方法がある。一般の花を写す人逹には、これが中々むずかしいのである。たとえば、それがカラー写真の場介は色の情感をかなり伝えることが出来るが、白黒写真の場合には色彩が全部オミットされて、単なる白と黒であらわれるから、自然の花葉の感じを完全に伝えることが不可能である。濃い紫色の場合、黄色の場合、紅葉の色の変化など、細い垂れやなぎの悼紹など、白黒写真ではとらえにくい。ことにいけばなという―つの定形の中で、それをとらえることは写真として不充分であると思うこと思っ゜私がよくある。高度の技術をもつ写真家が色彩写真で写した場合、漸く、その真実に近いものになるといった状態で、中々むずかしいものだが、また活けるほうも花器の選択について、ただ形がよいとか、花によく澗和しているとか、その以上に写真効果を充分計舞してやることが必要である。写真に感度のよい花材と花器、その大きさと前後の深み、その分最、写真に美しく写るための特殊な作品であること、その他、よきいけばな写真を作るための特殊な考え方や技術といえるものが必要になってくる。これが、いけばなと写真との中問の技術といえるものであって、適切な言葉でないが、「いけばな写真の演出」とでもいえる技術でないかともかなり永い間、いけばな写真を作っているが、実際、むずかしいものと思っている。いけばな写真は単なる記録のための写真ではない。いけばなの真実をどんなにして伝えるか、そのための写真である。また、見る人達はそのいけばな写真に何本材料が使ってあるか、などと考えずに、そのいけばな作品の技術と感覚を読みとることが肝要である。写真の花には材料を少なく入れても多く見えるので、分最を少なくして活けてあることが多い。12

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