テキスト1973
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一国をつかさどるような資産家、そんな家を「素封家」というそうである。ただ資産家というだけでなく家族制度そのものまで、伝統の家風をまもっている家、そんな内容をふくめていわゆる名家といわれる家がまれにはあるものである。このごろはそんな感じが一般には通用しなくなったが、京都のような古い町には、そんな感じをうける家が、まだまだ残っているのだが、私\!J ui の若いころにはそんな家がかなり多かった。私がいけばなの先生をやりはじめた二十五、六オのころには、そんなお邸に招かれて床の間の花を飾り、古風な洋間にいけばなを活けて、いわゆるお抱えの花の先生という、一風変わった待遇をうけていたことがあった。このごろはそんな古い形式がはやらなくなったのか、万事多忙な世の中のことだから、のんびりと花を活けさせて、それを見るのを楽しみにするというような風雅が少なくなったのか、それとも桑原先生を依頼するのは恐縮ということになったのかしらないけれど、ほとんどそんなお家から口がかかって来ない。京都の東福寺に近い本町二十二丁目にあった、飯田新七氏の「呉竹庵」から、お座敷の生花を活けて欲しいと穎まれたのは私の二十七八オのころだったと思う。飯田さんはデ。ハート高島屋の社長で、そのころは烏丸松原に京都本店のあった頃である。高島屋も今では全国的なデ。ハートだが、そのころは高級呉服に重点をおく「京都の高島屋さん」で、上流の奥様お嬢様が買ものに行く特異な店であった。その本家の飯田さんの邸宅であるから実に堂々たるもので、本町に面した建仁寺垣の高塀が二百メーターほどもつづいて、後方の稲荷山まで深い樹立ちの中に屋敷があって、たしかに素封家というにふさわしい、まことに悠然とした大邸宅であった。ひとりだちして年月の浅いいわば新米の花道家である私が、随分あっかましい次第であったのだが、それにはそれの順序というものがあった。大体、飯田さんへ行って欲しいと頼まれたのは、六条の西本願寺のいわゆる大奥からの依頼なのだが、私の家は代々本願寺の立花の先生であり、私も子供のころからおやじさまにくっついて本願寺の黒書院や飛雲閣のいけばなの手伝いなどをしておった関係もあり、飯田さんは本願寺の信者総代(勘定)者だった関係もあって、花道家としての私が年令を越えて、とにかく行って欲しいということになって、仕方なく出向いたという、そんな次第だった。私は大体、そんな方面に頭をさげて行くのは性があわないので、嫌々ながら出かけたのだが、さて、飯田の御主人や、御老母や家庭の方達にたびたびお会いしているうちに、さすがに素封家の家庭というものの立派さに、頭が垂れる思いがして、それから数年間、戦争のきびしくなるころまで座敷のいけばなや、茶室の呉竹庵の花を、たびたび活けたものだった。飯田さんは立花がお好きだった。立花を床の間に活けるという家は、このごろの時代にはほとんど少ないし、作って欲しいと頼まれることも皆無といってよいほど珍らしいことである。本願寺関係のお家なので、さすが「立花」を望まれるのは当然であるとしても、民家の床に立花を飾りつけることは、私自身にとっても意外なことだった。それから機会あるごとに立花を作り、来客のある時にも立花を飾ることが度々だった。主人も趣味の深い人だったし腰ののような後援低い丁重な人だったので、私も勉強になるよい機会でもあり、とにかく一作ごとに誠意をこめて、よい作品を作るように努力したものだった。「先生、ちょうどよい機会ですから立花によくうつる花瓶を、先生のお好きなように作らせて下さいませんか」と、たのまれたのは、それから数力月してからだった。実際、二十七、八オのそのころは自分の花器さえも、中々思うように買えない時代であったので、これはちょうど幸い、自分の思うような花器を作らせてみよう、お金をだすのは天下の飯田さんだから、日ごろ作りたいと思いながら作れない夢を、このチャンスに果すべし、と日ごろウインドウだけ見て通りすごしているある金工の有名店へいって、私の書いた立花瓶のデザインを示して、作製してもらうことにした。そのとき三種のデザインを描いて五、六個作らせ、飯田さんへ納品させたが、そのうちの一個は私の最初の花器として、手もとに残しておいたのだが、戦争の苛烈になったころ金属器はすべて供出すべし、という軍部の命令によって、その他の金属花器とともに、どこへ持ち運ばれたことやら、おもい返しても名残惜しい次第である。カットに描いたのはその時の立花瓶だが、竜紋に波を描いた重厚な立花瓶だった。瓶砂花か立[ぅ育乱専渓12

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