テキスト1972
65/150

さとざ< ⑪ c る。町の花屋ではかきつばたも、すでに残り花で、こでまりの白い花も泌開のころごろである。白い砂のみえるこの野川の一キロほどの問に、野生のかきつばたが一株ひとかぶと間隔をおいて、緑の葉のすがすがしい葉株を流れの中に茂らせている。まだ季節が早いのか花が少なく、まず三分咲きという程度で、紫の花よりも緑のつほみの方が多い。花の盛りには一週間も早い状態である。さらに道を変えて枝川を廻って四、五丁ほど歩いて行く。またそれにつづく小川をいくすじとなく調べてみるのだが、かきつばたのあるのはさきのひと筋の川だけであって、他の川べりには一株もみえない。ふたたび最初の野川にもどって、こんどはその川筋を上流の方へ向って歩いてゆくと、ここには点々と紫の花が咲いて、この川べりの道をさらに一キロほど歩いて行くと、小川と適は黒々とした樹の森の中へ入って行く。雨はしばらくやみ、またひとしきり降って時雨校様と変った空は少し明るくなったようである。かなり深い森の中は桧、杉、もちの木やそれに新緑の楓などが入りまじって、風の吹くたびにばらばらと雨の滴くが音をたてて飛ぶ。しばらく歩くと樹木の梢が切れて空の見える少し広い場所に出ることが出来た。ふとみると、そこに十坪ばかりのfこ。 よく考えてみると、条件に恵哀れ小さい池があって、落葉の菫なった池に、目をみはるような美しいかきつばたが咲き揃っている。三尺ほどにのびのびとしたかきつばたが数十本、賠い森の中をここだけは華やかに紫の花を咲かせている。森の中のかきつばたは風にいためられることもなく、のびのびと優婉の花を咲かせているのだが、ちょうど能でみる杜若の精のように思えて、私は呆然としてそれをみつめるのみであった森の池のかきつばたは、やがてその種子を湧き水の流れて行く、さきの野川の川筋に送られて、ところどころに根をとどめにものと思われるのである。森の中の水源の水は、幾つかの小川に分れて、田圃をうるおしているのだが、その中のいちばん条件のよい川筋に繁植して、つぎからつぎヘと種子を流しているに迩いない。砂地の小川に咲くかきつばたは花も菜もひきしまって、花は濃い紫である。雨や風にたたかれてしっかりと育ってきたのであろう。森の中のかきつばたは、ろうたけた女の姿に似て、のびやかな薄紫の悶かな花を咲かせている。ひとしきり風に交って降る雨の中に、「花の生活も厳しいもの」と息いながら、群る紫の花をいつまでもながめていたのである。吉野ざ< よしの桜一種である。古木をまじえたこの桜は風雅な枝がよくまとまっている。技術的にもむづかしい花だったと思う。真の部の変化のある枝,留の部に上方へ立つ2本の枝の調子も面白い。水ぎわもよくひきしまって美しい技巧をみせていると思う。八木慶稔作高さ4尺ばかり,横はばも相当に大きい大作である。自然の枝振を利用して,自然風な雅趣に重点をおいた作品。花器の形が変っている。技術的に優れた作品である。この作品は雄大な雅致を考えた生花で,普通の家庭で活けるものとは,随分変っている。らら桑原隆吉作11

元のページ  ../index.html#65

このブックを見る