テキスト1972
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だが拾遺集の中に「行末のしるしに残るべき松さへいた<老いにけるかな」という文章がある。標(しるし)とは―つのものごとを氷く後年に残し伝えるために、標木をたて、あるいは記念の植樹などをして、そのときの思いを氷くとどめておく、という意なのである。その記念樹の松さえ年をへて老木となった、という意味で深い感恢をのべた一節であるのだが、この文章fこ。 ト月に岡山市で斎膝紫水氏のいけにあるようなお話が最近、私逹の流内にあったので、皆さんにもお伝えしたいと、この記事を書くことにしばな展があった。二十二日の朝、会場のホテル後楽について三階の会場に入ってすぐ、目についたのはここに掲載の写真にある「塗手桶の投入花」であった。来賓のためのいけばなかと思いながら、紅葉の「かりん」の枝に貴船菊の白い花、コムラサキの紫の実の風雅な瓶花をみていたのだが、しばらくして斎藤氏から「このお花について」いろいろお話をきいた。それはまことに味わいのある風雅なお話であった。二年ほど以前の紫水会いけばな展のことだった。そのとき「家元作品」として、私は会場に瓶花を活けることとし、京都から「かりんの実つきの枝に白菊」をもたせ、また花器も平素から愛用の「印度の金属花瓶」を用意して、会場でかなり大ぶりの花を活けた。秋のことだったから、黄色にいろづいた実つきの枝を数本入れ白菊を添えて、かなり豪華な瓶花を活けたのだった。その後、年月のたつにつれその時のことは、私の過去として忘れていたのだが、そのときの「かりんの木」が今日、ホテル後楽の桑原専脱流展に会場の花として、新しい粧いを見せてくれるとは、実に思いがけないことであった。以下は斎藤さんのお話である。「あのときのお家元のかりんの瓶花が、あまりにも見事だったので、会旦一同が枝と実をわけあい、なんとか植木として育てられんものかと、挿し木をしたり、実から種子をとって播き育てたのですが、その中に岡山市大学町の岡田貞子さんが園芸に辿品が深く、このうちのし木をして育成されたのが、最近、隆々として枝梨をひろげ、今日、美しい紅棠の姿をみせるようになったということです。そしてこの手桶のかりんも、その木の一部分です。副材につけた投船菊とコムラサキの実も岡田さんの丹精による圏芸材料です。」とのお話。ちょうど会場に出席されていた岡田さんにも会い、いろいろ苦心談を拝聴したが、御婦人の趣味としての園芸技術はいうまでもないが、「会場作品の残花」を、さらに育てるとい一本から挿う、皆さんの風雅と愛花の精神は、華道をしたしむ人達として、まととに尊敬すべきものと思い、深い感銘をうけたのだった。ここに掲載したのはその作品写真で、黒漆の手桶に紅葉のかりんの葉色が美しく、さびた紫色の「コムラサキ」の実、白く小さい花の「貴船菊」の三種の投入れである。かりんの樹はインドの原産の喬木高さ六メ—トルにも及ぶ落葉樹で、春のすえ淡紅色の小さい花を咲かせ、秋に黄色の大きい実がつく。香りのよいものだが、そのままでは食用にならないので砂糖漬にすることが多い。質が硬いので木材として机などその他の器具が作られる。大きい果実は落ちやすく、いけばな材料には使いにくい木である。「貴船菊」はシュウメイギクともいい、白花と紅花の二種がある。池賀県石山寺の庭にこの秋明菊が咲く。庭の岩硲に咲くこの花は、石の庭によく調和してまことに風雅な慇じをうける。京部の恥只船に咲くという宜船菊は名化というにふさわしい品位をもっていると思う。コムラサキは秋手に淡い紫色の実をつける喬木である。ムラサキシキプという木があるが、少し小粒の実をつけたかんほくで、コムラサキとは少し違う。野生の木で渓谷など日蔭の雑木にまじって生植している。移植して庭に栽培することの出来る木で、風雅な情緒のある木である。. 、かりんの樹専渓12

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