テキスト1971
27/154

これは京都河原町二条北入法雲寺の中にあります。この地は関白太政大臣藤原兼家の二条第の跡といわれています。狂言の中に「清水」というのがあつて、その中で太良冠者の言葉とし「野中の柳の水か、さめが井か、中にも野中の清水が一ちよいと申しますが」という詞章があります。野中の清水を汲みに行くと鬼が出るといつて主人をおどかす狂言ですが、この法雲寺の野中の清水のことで、今は繁華な市街のまん中ですが、そのころはうら淋しい野辺の中にあったものでしよう。「走井」はしりい、は京津国道のおおさか山に近く、国道にそうて自動車の交通の激しい通りすじにある「月心寺」の庭にあります。これも有名な泉で、「東海第一泉」と境内の高札に記されており、その文中に「この名井は13代成務天皇御誕生の時、産湯に用いられたと伝えらる。関の清水走井などの清冽な水でたてられた茶と共に摂ったのがその名のおこりである」と記されています。「朧の清水」おぽろのしみず、京都の洛北大原、大原御幸で名高い寂光院から東南へ五、六町の草原の小道にそうてあり、有名な三千院の西北の位置にあります。大原御幸の謡曲の中にあるこの泉は、今は水も枯れてその名残りをのこすのみですが、その畔の高札に、「この泉は建礼門院が御影を映されたと伝えらる」とあります。また謡曲(大原御幸)の中に「あわれも憮な大原や、芹生の里の細道、おぽろの清水月ならで御影や今も残るらん」とあって、その情景を物語つております。しかし歴史に有名なこの泉も、今はわびしく野路の草むらの中に、枯れがれの水をたたえているのみです。「観世水」は上京区千本の桃園小学校の中に保存されている名井゜菊の井は室町四条上る能楽金剛家の邸内にあり、草紙を洗ったという能楽「草子洗小町の井戸」は一条堀川にあります。能楽関係には名井の名残りが多く、それに附随した物語が伝えられております。いうのが、室町御池辺の民家にあるといわれていますが、はつきりしません。附近に竜池小学校と学区をとなりあわせて柳池小学校の二つがありますが、これがこの「柳の水」に関係のある史蹟でないかと思います。牛若丸生誕の地というのが、上京区紫竹牛若町にあります。ここに「牛若の井」というのがあるとのことですが、見聞の機会がありません。牛若町は私が終戦まぎわの昭和20年の2月から8月まで仮住居をしたところで、そのとき住んだ私の家を貸したまま現在に至っています。近い機会に「牛若の井」をしらべてみたいと思つております。さて、京都の名井をしらべてみると有名なものが多いのですが、現在は涸渇して井泉の「柳の水」と面影もなく、ただ史蹟として名をとどめているものが多いのですが、洋風の建造物の少い大徳寺、上加茂辺にはまだまだ豊かな水をたたえている井戸が多いと思います。京都市内の井水は東山、の地下水によるものと考えられるのですが、市内の中央部はビルディングの工事によって水脈をさえぎられ地下水の湧出がとめられたものと思われます。鴨川は今日でも清流をたたえてせんせんと流れており、大都市の中心を貫流して、渓流の性格をもつ川は全国的にも珍らしいといわれますが、府の努力によって美しい鴨川の水を、四条、五条のすえまでみることのできるのは幸せなことです。北山より先日の新聞によると、大阪千日前の法善寺の「水かけ地蔵尊」の湧水が、附近のビル建設のために断水して、水道水でまにあわせている、と書いてありましたが、追々と都会の自然水は断絶することになるのでしよう。井戸水と水道の水さて、話題をかえて私達の日常に使う水について考えてみましよう。水のよしあしに関係の深いのは、料理に使う水、園芸植物に与える水、いけばなの花器に入れる水、喫茶に使う水、鯉などの養魚に使う水、その他の工業用水など種々な用途が多いわけですが、今日の都会地では井戸水を使うことはほとんどなく、水道水にたよるのみ、ということになつています。私達の日常生活は水道の水になれてしまつているのですから、環境順応とでもいうことになつていますが植物とか魚などは自然の湧水、河川の水など、いわゆる軟水といわれるものがよいとされています。もちろん水道の水も自然水の誘引に違いないのですが、衛生のために混入する「カルキ」のために、植物の生育を妨げることになり、不良な結果を生むことになります。養魚などにもよくない水なのです。植物には石灰分が多いと悪い影恕があるわけですから、石灰カルキの混入される水道水はよくないというわけです。新しくはりかえた銅板の屋根から落ちる雨水は、それをうける下草、こけの類には悪く、軒にそうて植え大原寂光院にほど近い野路にある。なんとなく通りすぎるような道ばたに,有名な名跡の泉。朧の清水おぼろのしみずて11

元のページ  ../index.html#27

このブックを見る