テキスト1971
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彎i専漢術展」というのが、高松市において閲催されました。その展覧会への「桑原専渓の出品作」が写真に掲載したものです。花逝家の作る「辿形作品」について、解説をしたいと思つていましたが、この機会に会場での作品と、その制作過程を写真にして、この作品はどんな意図で作ったのか、そのはじめの目椋と実際に作りあげた作品とが一致したか、というようなことをなるべくわかりやすい様にお括してみようと息います。10月の3日から「日本いけばな芸こんな傾向の美術的な作品の解説は、とかく理論的になりやすいし、難解な抽象論になりやすいので、ここでは、なるべく平易に作者としての気持ちをそのままお話して「花道の造形」とは、どんな考え方で作られるのか、どんな工程が必要なのかなにをあらわしているのか、これをどこに飾るのか、普通のいけばなとはどこに関係があるのか、花珀家がこんな作品をなぜ作るのか、などについてひと通りの解説を加えてみようと息います。なるべく気軽に読んで下さい。造形とは形を作る仕事であります。絵画、彫刻、工芸の類はすべて造形芸術であって、美術的な作品というものを最終の目棟として、いろいろな分野にわかれて仕事をします。単に形を作るのみではなくて美術的なもの、という所に特徴があるわけです。いけばなは梢物を材料として形を作ることであって、いわゆる造形美術の―つの分野にあるわけです。伝統的ーは立花生花も、近代的な盛花瓶花もすべて、作り、色調を作り、感覚を生み出す「花の造形芸術」ということになります。しかし、私逹のいけばなには「造形」という言策はほとんど川いません,いけばなという言葉が造形を意味しており、立体的な植物の芸術である、とけばな」という固有名詞で充分その意味が通じますし、いけばなといえば一般にすぐ理解されるわけです。しかし、ここでもしこの写頁にあるような作品が「いけばな」だといつたならば、これはきっと反発する人もあるだろうし理解に屑しむ人もあるとHI心います。こんな形式の作品が花道家の手によって竹られるようになつてから、すでに四十介ほども経過しておりま造形という言葉植物を材料として形を般的に理解されており「いす。私もこの「花道家の造形」の立案者であり、創始者でもあるわけですが、その直任からもその目標をはつきりお話することが必要だと常々考えております。こんな形式の作品が戦後流行しまして「前衛いけばな」という名称で流行時代を作ったことは皆さんもご承知のことと思います。花道家の作る前衛的作品だから「前衛いけばな」だという意味ですが、私はこの名前は実に面白くない名前だと思つています。私の信念として、こんな形式の造形作品は決していけばなでなく、いけばなとは別箇のものである、という考え方です。たまたま花追家の作った創作的な造形であるがゆえに、前衛いけばなという名称になったのですが、植物を活けるいけばなと、新しい「辿形作品」を結ひつける必要はないのです。これまでのいけばなの考え方の中で新しい辿形を作ろうとするところに根本的な誤りがあると111心うのです。「花道家の作る創作込形」はいけばなとは閲係はなく全然別個の出発点と、別個の形式技法をもつて作るべきもの、というのが私の主張です。いけばなから離れてなんのとらわれもなく、な創作ができるところに祈しい11●●術の発脳竹があるわけです。ただ、ここに注怠すべき点は、私911由ia曇高松展の出品作とその工程花道家の造形

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